読書

今年は「村上春樹」(22)  ~バースデイ・ガール~

これは、なんと「中3国語(教育出版)」に載っていました。

今日そのことを聞いて、さっそく今日(教科書を)読みました。いやはやなんとも・・・「灯台下暗し」でした。(だって、自分は理系科目を教えているわけだし・・・といった言い訳をしたくなりました)

 

しかしながら『バースデイ・ガール』、セックスや血は出てこないまでも、まさに「村上ワールド」いろいろ感じました。

『チキンであること、それが料理人に求められていることのすべてなのだ。・・・・(「バースデイ・ガール」より)』

『こうなればいいという願いだよ。・・・・(「バースデイ・ガール」より)』

『そういうことじゃなくてもかまわないんだね? 普通の女の子が願うようなことを。・・・・(「バースデイ・ガール」より)』

『でもそういうことって、もし実際にかなえられてしまって、その結果自分がどんなふうになっていくのか、わたしにはうまく想像できないんです。・・・・(「バースデイ・ガール」より)』

『まだ人生は先が長そうだし、わたしはものごとのなりゆきを最後まで見届けたわけじゃないから。・・・・(「バースデイ・ガール」より)』

『「バンパーはへこむためにある」・・・・(「バースデイ・ガール」より)』

『人間というのは、何を望んだところで、どこまでいったところで、自分以外にはなれないものなのね・・・・(「バースデイ・ガール」より)』

『「あなたはきっともう願ってしまったのよ。」と彼女は言う。・・・・(「バースデイ・ガール」より)』

選び直すことはできない。

選択は、常に「一つ」だけ。

選ばなかった未来は誰にもわからない。

 

自分以外の何者にもなれない。

にもかかわらず、何かを求めずにはいられない「人間」。

その結果・・・誰も「喪失感」から逃れられない。

 

そんなふうにして、僕らは生きている。

そんなふうにして、僕らは生きていく。

 

 

でも今、しみじみと・・・

「自分も中学時代に村上春樹に出会っていれば・・・」

何かが変わっていたんだろうな。

 

そんなことを思いながら読んでいました。

 

 

僕には、春樹の小説は分からないかもしれない

でも、「分かる」ことはできなくても、「感じる」ことはできる。たぶんきっと。

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今年は「村上春樹」(21) ~スプートニクの恋人 1~

「スプートニクの恋人」

様々な書評なんかを見ていて、正直そんなに期待していなかった自分がいました。

でも今は・・・・・反省しています。

 

『しかしそこにはとても大きな問題がひとつ残っている。それは、鏡のどちら側のイメージが、わたしという人間の本来の姿なのか、わたしにはもうそれが判断できなくなってしまっているということなの。(中略)そんな混沌をもう一度呑み込めるという自信が私には持てない・・・・(「スプートニクの恋人」より)』

様々な場面で様々な面を見せる自分自身の中で、どれが本当の自分なんだろう?

自分自身のことながら、「これが同一人物の行動?」と思ってしまうこともある。

自分って何だ?自分って誰だ?

 

『(前略)不思議なことに気がついたの。つまりね、わたしより明らかにテクニックが劣っていて、わたしほど努力しない人たちが、わたしより深く聴衆の心を動かしているのよ。(中略)でもそのうちにわたしにも少しずつ見えてきた。わたしにはなにかが欠けているんだということがね。よくわからないけれど、なにか大事なもの。・・・・(「スプートニクの恋人」より)』

『強くなることじたいは悪いことじゃないわね。もちろん。でも今にして思えば、わたしは自分が強いことに慣れすぎていて、弱い人々について理解しようとしなかった。幸運であることに慣れすぎていて、たまたま幸運じゃない人たちについて理解しようとしなかった。健康であることに慣れすぎていて、たまたま健康ではない人たちの痛みについて理解しようとしなかった。(中略)当時の私の人生観は確固として実際的なものではあったけれど、温かい心の広がりを欠いていた。(中略)自分になにが欠けているのか、その空白に気がついたときにはもはや手遅れだった。・・・・(「スプートニクの恋人」より)』

僕にも、なにかが「欠けて」いる。

そしてそれは・・・・・手遅れなんだろうか。

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並読

先日まで「海辺のカフカ by村上春樹」と「ハリーポッターと死の秘宝」を並読(同時に読み進めること)していたわけなのですが、どちらも非常に面白かったです。

ワクワクする(引きつけられる)と言った意味では、自分的には同じくらい。

とにかくどちらも面白かった。

 

ただそこには決定的な違いが・・・

 

村上春樹では、自分の人生が変わっていくのがわかる。

今までも、たぶんこれからも。

 

ハリーポッターでは・・・。

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今年は「村上春樹」⑳~海辺のカフカ 1~

ちょうど2ヶ月前に、今年になってから読み始めた村上春樹の途中経過を書いたわけですが、(下記参照)

http://jidaiokure-blog.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_84f8.html

その後、「カンガルー日和」を挟んで、久々の長編「海辺のカフカ」を読み終わりました。

 

ここまで読んできた作品同様、これもまた思いっきり惹き込まれました。

例えば、以下の一部分で・・・

『何かを経験し、それによって僕らの中で何かが起こります。化学作用のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛りが一段階上にあがっていることを知ります。自分の世界がひとまわり広がっていることに。僕にもそういう経験はあります。たまにしかありませんが、たまにはあります。(中略) 「そういうのはきっと大事なことなんだろうね?」と彼は言った。「つまりこの俺たちの人生において」 「はい。僕はそう考えています」(中略) 「そういうものがまったくないとしたら、ぼくらの人生はおそらく無味乾燥なものです。(中略) 「話せてよかったよ」・・・・(「海辺のカフカ」より)』

気付けてよかった。

経験できてよかった。

無味乾燥でなくてよかった。

 

実感しています。

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「アルケミスト」を読み終えて

この本は、誰に向けて書かれているんだろう。

子供?若者?

少なくとも、僕には『僕に向けて』書かれていたように感じた。

 

この本が、あの日本棚から僕を呼んだのは、偶然じゃなかった。

そう思う。

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昨日の追記・・・アルケミスト

昨日の記事に「村上春樹をストックしようと古本屋に行った」ことまでは書きました。

が、実はその後にも出来事があって、それは本を買ってレジを背にして歩いていた時のことでした。

目的は達したので、もうそこには用がなかったんだけれど、何となく(ホント何となく)ある棚の前で足が止まり、見るではなく棚を見た時にそれは目に入ってきました。それは自分が足を止めた真正面にあったのです。

『夢を旅した少年 アルケミスト』パウロ・コエーリョ著

 

世界的なベストセラー(らしい)ので、珍しい本ではないんだけれど、自分にとっては過去に一度だけ名前を目にした本です。それは、この本のタイトルをグループ名にしている「アルケミスト」という人達のライブを偶然聴いた時。

その時の印象がかなり強かったので(以下のブログ参照)、その名前が心に刻まれていたのだと思います。

http://jidaiokure-blog.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_d348.html

 

それにしても、フッと目を上げたその真っ直ぐ先にその本の背表紙があった時、正直ドキッとしました。

その本に”呼ばれた”気がした。

 

そして今、それを読みながら感じていること。

「僕はこの本に、出会うべくして出会った。読むべくして読んでいる」

偶然とは思えない。

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今年は「村上春樹」⑲~ちょっと振り返って~

今年は村上春樹を読みまくると決めてから、その他のものも少々読みながら半年が経ったわけです。

ここ半年で読んだものを振り返ってみると、

「ダンス・ダンス・ダンス(上)(下)」「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険(上)(下)」「回転木馬のデッド・ヒート」「ねじまき鳥クロニクル(第1部)(第2部)(第3部)」「国境の南、太陽の西」「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上)(下)」「辺境・近境」「神の子供たちはみな踊る」「遠い太鼓」「アフター・ダーク」

となります。

 

今は「夢で会いましょう(村上春樹&糸井重里)」を読んでいます。

 

そして先日、ストックが底を尽きたので、新たに古本屋に走って買い揃えてきたのが、

「海辺のカフカ(上)(下)」「スプートニクの恋人」「レキシントンの幽霊」「カンガルー日和」「やがて哀しき外国語」

です。

ちなみに「ノルウェーの森」は、最後に読む!と決めてとってあります。

 

ただ、既に「一通り全部読んだら、即もう一回始めから読んでみようか?それとも数年寝かしてからまた読もうか?」

と悩んでいます。

これからも、実に楽しみです。

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今年は「村上春樹」⑱~神の子どもたちはみな踊る 2~

前回の続き、神の子どもたちはみな踊る(阪神淡路大震災後に書かれた短編集)

 

『理解とは誤解の総体に過ぎないと言う人もいますし・・・・(「かえるくん、東京を救う」より)』

実際に、こと人間関係においてはそうなんだろうな。科学ではどうか分からないけれど。

「相互理解」なんて、実際には「相互誤解」ってことになるから面白い。でも、だからといって理解を求めないわけにはいかないところがまたまた面白い。

 

『「私はとても平凡な人間です。(中略)何のために生きているのか、その理由もよくわからない。そんな人間がどうして東京を救わなくてはならないのでしょう?」(中略)「あなたのような人にしか東京は救えないのです。そしてあなたのような人のためにぼくは東京を救おうとしているのです」・・・・(「かえるくん、東京を救う」より)』

以前、人の思惑のことに関していろいろと考えた時期があったけれど、自分も含めてほとんど誰もが「思惑人間」であると感じている。人とのつながりの中で、何かをしてもらいたい、何かを分かってもらいたいってことばかりで人と接している。

そんな思惑人間には。身近な人一人本当には救えないんじゃないか?と考え始めている。

 

『いずれにせよ、すべての激しい闘いは想像力の中でおこなわれました。それこそがぼくらの戦場です。ぼくらはそこで勝ち、そこで破れます。もちろんぼくらは誰もが限りある存在ですし、結局は破れ去ります。(中略)ぼくらの人生は勝ち方によってではなく、その破れ方によって最終的な価値を定められるのです。・・・・(「かえるくん、東京を救う」より)』

一時期、社内でも自分の中ででも流行った言葉

「負け下手」

誰もがいつかは死ぬ。いつまでも負けない勝負なんかない。分かってはいるんだけれど、他者との「差異」の世界に溺れていく。

 

『目に見えるものが本当のものとは限りません。ぼくの敵はぼく自身の中のぼくでもあります。ぼく自身の中には非ぼくがいます。・・・・(「かえるくん、東京を救う」より)』

例えば、こういえば分かり易いのかも知れない。

「いい人がいるのではなく、いい面を持った人がいる」

「悪い人がいるのではなく、悪い面を持った人がいる」

でも、そんなことを言い出せば、それらが「当たり前」だってことには誰だって気付く。

そう、当たり前。誰にとっても当たり前。

いい人・悪い人、被害者・加害者、何でもそれらは表裏一体の混沌とした一面でしかすぎない。

最も敵となりうるのは自分かもしれない。そして最も間違っているのは自分かもしれない。

「これって、現象学的還元にも通じるよな」と思った。

自分を知ることは他人を知ること。他人を知ることは自分を知ること。

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今年は「村上春樹」⑰~神の子どもたちはみな踊る 1~

今年は村上春樹!と決めて読み始めて既に4ヶ月が過ぎました。

どの作品を読んでも(感じ方の違いはあるにせよ)、「なんて面白いんだ」でも「もっと前から読んでいれば」と感じずにはいられません。

読み進めていくにしたがって、「自分自身がぼんやりと見えてくる」といった不思議な感覚に陥っています。

 

ところで、神の子どもたちはみな踊る(阪神淡路大震災後に書かれた短編集)

 

『どれだけ行っても、自分自身からは逃げられない。影と同じだ。ずっとついてくる・・・・(「UFOが釧路に降りる」より)』

それでも歩く、走る、どこまでも行こうとする。でもまた、それでも自分は自分自身でしかない。自分自身というものからは、絶対に逃げ切れない。 じゃあ、それじゃあ歩みを止めるのか?

 

『ただ最初から理解できたのだ。この旅人はほんとうは死を求めている。それが自分にはふさわしい結末だと知っている。それにもかかわらず、彼は全力を尽くして闘わなくてはならない。(中略)深いところで揺さぶったのは、物語の中心にあるそのような根元的ともいえる矛盾性だった。・・・・(「アイロンのある風景」より)』

上の話と同じだ。逃げられないなら逃げないのか? 死を求めるなら生きないのか?

誰もが(もちろん僕も)、そんな根元的な矛盾を抱えて生きている。

 

『予感というのはな、ある場合には一種の身代わりなんや。ある場合にはな、その差し替えは現実をあるかに超えて生々しいものなんや。それが予感という行為のいちばんこわいところなんや。そういうの、わかるか?・・・・(「アイロンのある風景」より)』

最近こういった話を聞いた。そして自分の過去の経験も思い出した。

自分には何ともできない大きな流れの中で、その予感だけを感じる。

その無力感と絶望感。

世界は”予兆”や”予感”に満ちている。

 

『これからあなたはゆるやかに死に向かう準備をなさらなくてはなりません。これから先、生きることだけに多くの力を割いてしまうと、うまく死ぬることができなくなります。少しずつシフトを変えていかなくてはなりません。生きることと死ぬることとは、ある意味では等価なのです・・・・(「タイランド」より)』

『彼女は自分がゆるやかに死に向かっていることを認識した。体の中に白い堅い石が入っていることを認識した。うろこだらけの緑色の蛇が暗闇のどこかに潜んでいることを認識した。(中略)ある意味では、あの地震を引き起こしたのは私だったのだ。(中略)生きることと死ぬることとは、ある意味では等価なのです・・・・(「タイランド」より)』

なんて言ったらいいのかな、

死ぬと分かっているから生きる。変えられないと”分かって”いるから、必死に変えようとあがく。現実の世界は、様々なことの表象、表れに過ぎない。

いつか必ず僕は死ぬ。だから”死ぬために”生きる。ただそれだけなのかもしれない。

僕のシフトはうまくいっているのか?

 

『なあニミット、それでは私たちはいったい何のために生きているんだい?・・・・(「タイランド」より)』

いつかその答えは見つかるんだろうか? いや、見つからないと”わかって”いるから探し続けるのかな。

  

繰り返しになるけれど、

誰もが(もちろん僕も)、そんな根元的な矛盾を抱えて生きている。

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今年は「村上春樹」⑯~辺境・近境 1~

『そう、ひとつだけ確実に僕に言えることがある。人は年をとれば、それだけどんどん孤独になっていく。みんなそうだ。でもあるいはそれは間違ったことではないのかもしれない。というのは、ある意味では僕らの人生というのは孤独に慣れるためのひとつの連続した過程にすぎないからだ。だとしたら、なにも不満を言う筋合いはないんじゃないか。だいたい不満を言うにしても、誰に向かって言えばいいんだ?・・・・(「辺境・近境」より)』

不満はない。誰に対しても、何に対しても不満はない。

ただ、そのことを考えると(向きあうと)、ほんのちょっとの寂しさを感じるだけ。

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なぜか源氏物語④~集中講座終了・・・の巻~

今年の2月~3月にかけて受講してきた「源氏物語」の講座が終了しました。

仕事の関係で受講できたのは全7回のうち5回だったけれど、「思い切って受講して良かった」と感じています。

「日本人なら源氏物語を・・・・」と言われる理由の端っこぐらいは感じられたと思うし、今回いくつかの帖を解説されただけだけれども、その奥に広がっている世界を垣間見せてもらった気がするから。(失礼ながら)決して授業の上手な先生じゃなかったけれど、「本当に好きなんだなー」ということは充分伝わってきたし、「素晴らしい世界がある」ことを充分伝えてもらいました。ありがとうございました。

 

ところで、今回最後の講義となった「30帖 藤袴」、今まで以上に考えさせられました。

そこにありありと書かれている「関係の揺らぎ(先生談)」

『Aの関係であったならば、良い人でいられたものを、

Bの関係となったがために、良い人ではいられなくなった。』

これって、日常いたるところに見られるテーマだなーと思った。自分にとっても、日常そんなことだらけなような気がするし。

さらに、

『相手によって、自分(の対応、性格など)が変わる、

自分によって、同じように相手も変わる』

『人は(内も外も)多義的な存在である』

上記の話を聞いて特に理由はないけれど、急に講師の先生に親近感(「あーこの人も呼吸をし、いろいろ悩み考えながら精一杯自分の人生を歩んでいるんだな」ってな感情)が湧いてきた。

そう思って講師の先生を見たときに、(ちょっとばかし違和感を感じる)風変り(失礼!)なファッションセンスも、人間関係の下手そうな(またまた失礼!)ところも受け入れられるなーと思った。

多分、先生はそこそこ(自分なんかよりよっぽど)人の『多義性』を分かっているんだろうな。だから源氏物語に惹かれたのか、源氏に惹かれたから多義性を考え出したのかは分からないけれど、そこの話をしている時、この数回の講義の中で最も『肉声』が聞こえた気がしたから。それが聞けただけでもこの講座を受講した価値があった。

まあ、そうこう言っても、結局一番大きいのは、「源氏物語を今後自分で読んでいくのが楽しみ」になったこと。自分にとって楽しいことがまた一つ増えたこと。そして、それが日本人として存在している自分にとって、おそらく良い影響を与えてくれるはずであること。この意義は大きい。

 

「いろんな扉を開ける」

どこにだって、無価値なものなんかそうそうない。自分が受け止める気にさえなっていれば、いつでもどこでも自分を伸ばしていける。これは、今話題になっている「自分探し症候群」なんかとは決して違う。未来を夢見るんじゃなくて、今を、今の選択を、行動を、それだけのこと。

それだけのことが、自分を、周りを、世界をつくっていく。

村上春樹、源氏物語、まだまだ素晴らしいものはたくさんある。ワクワクしてくるね。

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今年は「村上春樹」⑮~風の歌を聴け 4~

僕は(村上春樹のことに関して書くとき、なぜか一人称が「僕」になることが多い。実生活で僕なんて使ったことがないのに)、村上春樹の小説から学んでいる(と思いたい)。

もちろん、それは「全てわかった」といった意味とは全然違って、たぶん(卑下も謙遜もなしに)数パーセントのことかもしれないけれど、僕にとっての生き方(を変えるぐらい)に影響しているといったことでは「社員研修」に通じるものがある。

矛盾、多義性、自己の中に潜むもの、選べるものと選べないもの、人の醜い部分と美しい部分・・・。

”人間というものの存在”に関して考えさせられたことは少なくない。

 

 

ところで、風の歌を聴け、

『僕は時折嘘をつく。最後に嘘をついたのは去年のことだ。嘘と沈黙は現代の人間社会にはびこる二つの巨大な罪だと言ってもよい。実際僕たちはよく嘘をつき、しょっちゅう黙り込んでしまう。しかし、もし僕たちが年中しゃべり続け、それも真実しかしゃべらないとしたら、真実の価値など失くなってしまうのかもしれない。・・・・(「風の歌を聴け」より)』

嘘はいけないこと。それは当然。じゃあ、そのいけないことに価値はないのか? 沈黙に価値はないのか? それは言うまでもないこと。

いけないことはするべきではない。これは真実であり真実ではない。

様々な矛盾を抱えた自分という人間が、(その良し悪しはこの際棚に上げるとして)存在していてもいいって(ある面)励まされている気がすることがある。

『「嘘つき!」と彼女は言った。しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。・・・・(「風の歌を聴け」より)』

  

 

『山の方には実にたくさんの灯りが見えた。(中略)実にいろんな人がそれぞれに生きていたんだ、と僕は思った。そんな風に感じたのは初めてだった。そう思うとね、急に涙が出てきた。泣いたのは本当に久し振りだった。(中略)僕の言いたいのはこういうことなんだ。(中略)  僕は・君たちが・好きだ。 ・・・・(「風の歌を聴け」より)』

僕がこの前、子供たちの前で言いたくてうまく言えなかったことがここに凝縮されている。

「僕は・君たちが・好きだ」

 

 

そして、いろいろ書き連ねてきた「風の歌を聴け」の最後に、以下の文章を・・・

『あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。僕たちはそんな風にして生きている。・・・・(「風の歌を聴け」より)』

僕も、そんな風に生きている。

そんな風にしか生きられない。

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今年は「村上春樹」⑭~風の歌を聴け 3~

村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』、

今改めてパラパラと読み直しても、そのインパクトは計り知れない。

 

『それに反して生き残った僕たちは一年ごと、一月ごと、一日ごとに齢を取っていく。時々僕は自分が一時間ごとに齢を取っていくような気さえする。そして恐ろしいことに、それは真実なのだ。・・・・(「風の歌を聴け」より)』

読む人の今の年齢と心持によって感じ方は違うのだろうが・・・。自分は何も言えない。

 

でもね、こうも書いてある。

『でもね、よく考えてみろよ。条件はみんな同じなんだ。(中略)だけどね、人並み外れた強さを持ったやつなんて誰もいないんだ。みんな同じさ。何かを持っているやつはいつか失くすんじゃないかとビクついているし、何も持っていないやつは永遠に何も持てないんじゃないかと心配している。みんな同じさ。だから早くそれに気づいた人間がほんの少しでも強くなろうって努力するべきなんだ。(中略)強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。・・・・(「風の歌を聴け」より)』

「みんな同じ」で、ほんの少しの「努力」、そして「強い振り」でいいのなら、自分にもできるか? やれるか? やるか、うん。

 

今日の研修で言われたこと(今日に限らずいつも言われているが)、

「心を尽くす」ことが、それだけが、ホントそれのみなんだ。

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今年は「村上春樹」⑬~風の歌を聴け 2~

今年は村上春樹を読みまくる!と決意して始まったこの「今年は村上春樹」シリーズ。

風の歌を聴けについては、以前一つの文章だけをどうしても書きたくて「風の歌を聴け1」は書いたけれども(下記参照)、本格的に書くのはこれからです。

http://jidaiokure-blog.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/1_7226.html

やっと、村上春樹のデビュー作であり、青春三部作(ダンス・ダンス・ダンスを入れれば四部作?)の始まりでもあるこの本に辿り着きました。ここから読み始めればよかったんだろうけれど、なにぶん計画性のない性分なので・・・。

 

『文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性でなく、ものさしだ。・・・・(「風の歌を聴け」より)』

何も文章を書くことだけに限らない、コミュニケーション全般において言えること。価値観、考え方、感性・・・何とでもいえるそれらのものが合うか合わないかより、いわゆる『距離感』が合うか合わないかの方が何倍も重要(お互いの心地よさのためには)ってことは、誰もが経験しているはず。距離感さえ適当ならば、全く考え方が逆の人ともうまくやっていける。逆は・・・しかり。

 

『暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない。・・・・(「風の歌を聴け」より)』

夢は・・・見れているかな?(どんな夢かは別として)

 

『僕にとって文章を書くのはひどく苦痛な作業である。(中略)それにもかかわらず、文章を書くのは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単だからだ。(中略)それが落とし穴だと気づいたのは、不幸なことにずっと後だった。・・・・(「風の歌を聴け」より)』

否応なく他者との関係の中で磨耗せざるをえない「生きる」ということ。自分だけの(厳しい捉え方をすれば「閉塞した」)世界の中で自由に養生していける「文章を書く」(言葉の意味そのものおよび比喩としての「文章を書く」)ということ。

この二つを比較することは、とりもなおさず

内面と外面、内向と外交、創造と浪費、発展と停滞・・・などなど、相異なる両極を意識し捉えていくことに他ならないと思うわけです。

幸いなこと(不幸なこと?)に、自分自身は”落とし穴”だと意識しないで生きていけています。文章を書くといった(繰り返しますが、直接的と比喩的な両方の意味を含めて)作業が、何がしかの自分の人生にとっての”良い影響力”を持つ(=働きがある)と、(いまだに)信じています。いや、信じていたい。

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今年は「村上春樹」⑫~回転木馬のデッド・ヒート 4~

『俺は老いているのだ。

これは動かしがたい事実だった。どれだけ努力したところで、人は老いを避けることはできない。虫歯と同じことだ。努力をすればその進行を遅らせることはできるが、どれだけ進行を遅らせたところで、老いは必ずその取りぶんを取っていく。(中略)年を取れば取るほど、払われた努力の量に比して得ることのできるものは少なくなり、そしてやがてはゼロになる。・・・・(「回転木馬のデッド・ヒート」より)』

やがてはゼロになる・・・・。重い、実に重い。

がしかし、投げ出さないと決めたからには、やるだけやってみる。そして飽きたらやめればいい『趣味』とは違って、今後もずーっと継続していくべきだし、そうしなければならない。

やがてゼロになる日がくるとして、その日までにどれだけプラスを増やしておけるか、またゼロになる日が来てからも、どれだけプラスの減少を遅らせられるか。今後一生をかけた挑戦だと感じている。その程度の覚悟はある。

 

『年老いること自体は正直に言って、僕にはそれほどの恐怖というわけでもないんだ。(中略)抗いがたいものに対して抗いつづけるというのは僕の性分にあっている。だからそんなのは辛くもないし、苦痛でもない・・・・(「回転木馬のデッド・ヒート」より)』

そこまでは言えないけれど(恐怖もあるし苦痛もある)、あえて行動する勇気を少しなりとも持っていたことに感謝したい。確かに、抗う=反抗することは自分の性分にもあっている。避けられない現実に対する怖さ反面、ワクワクしている自分も存在している。

 

それでは「回転木馬のデッド・ヒート」の最後に・・・

この本、(以前書いたかもしれないけれど)村上春樹の創作した小説ではなくて、実際に人に会って話した(話された)ことが、つまり事実が書かれている。

だから重かった。実に重かった。 でも・・・だから勇気づけられた。僕も負けない。

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なぜか源氏物語③~そりゃそうだ・・・の巻~

私:「なぜ、光源氏は、(実の息子以上に)柏木のことを買っているのに、さらに玉鬘のことを大事にしているにも拘らず、(実は兄弟である)二人の心を(柏木に玉鬘に言い寄らせるように仕向けるなど)弄ぶのでしょうか?」

と、(私が今、受講している源氏物語の講義の)先生に質問しました。

先生:「そうなんですよ、実は源氏物語の前に『うつほ物語』というものがあって、その中の『あて宮求婚譚』に非常に影響を受けているんですよね。その中で、実際に兄弟とわかった上で求婚する話なんかも出ている訳です・・・」

私:「?????」

先生は何の話をされているのだ?何が何だかわからないぞ??? と一瞬思ったその直後、状況が把握できました。先生が言っているのは、源氏物語の作者:紫式部が主語になっていて、自分は単に「なぜ光源氏は?」と光源氏の心情を知りたかったのです。

確かにその通りだ。だって、源氏物語は物語であって、光源氏は実在しない人で、実在しない人の心情なんか実際には存在しないわけで、その道を研究されている方にとって重要なのは、「なぜ光源氏はそんなことをするのか?」ではなく「なぜ作者はそんな場面を作ったのか?」になるわけです。

自分の質問に対する回答ではなかったけれど、妙に納得しました。

 

自分は、このブログにもさんざん書いてるけれど、本でも映画でもそれこそ人間関係でも「入り込んで」「感情移入して」「同化」しながら受け取っていきます。昔からそうでした。SFでも横溝正史でも、読んでいる時はおおかた『主人公になりきって』読んできました。だからホラー映画も見れない。最近ずーっと読んでいる村上春樹なんか、まさにそんな読み方です。(以下参照)

http://jidaiokure-blog.cocolog-nifty.com/blog/cat14891194/index.html

でも、こんな読み方って普通じゃないのかも・・・と思いました。

普通の人は、『本は本』

研究者にとって『本(作者)は研究対象』

 

謎が一つ解けました。

今回の受講の際に疑問に思っていたことで、

「源氏物語の世界に深く関わっているあなた(講師の人)は、その世界と実際の現実世界(自分の生きている日常)との間に、どのような関連性を持っているのですか?」

もっと簡単に言えば、

「源氏物語は、あなたにどのような影響を与えていますか?あなたの生活をどう変えましたか?」

と(実際には聞きはしないけれど)聞きたかった。

でも、それは一般的には違うんだな。研究は研究、物語は物語。大方の人は生活を変えようなんて思わないものなんだ。

だから、「光源氏は何を思っていたのか?」という質問自体、そんな質問自体に気付いてもらえなかったんだ。そりゃそうだ。

 

ところで、今回の講義(27帖 篝火)で、(物語を物語として距離を置いて読むことが苦手な私にとって)心に響いたフレーズ、

「<夕月はすでに沈み、人恋しい初秋のころ> この初秋というのは9月ごろのことで、まだ残暑もあるんですね。この場面は、光源氏そのものが人生の初秋、つまり終わりに向かう秋でありながら、まだ人生における暑さ(熱さ)を失っていない、といった姿を表しているんですね。・・・」

 

他人事ではないな。

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今年は「村上春樹」⑪~回転木馬のデッド・ヒート 3~

一つ、一つと様々なことが終わりをつげていっているここ最近、『終わり』という言葉が、痛切に(痛烈に?)心に響いてくる。

僕は、昨年からだけでも、いったいいくつの終わりを経験してきているんだろう。

そして、これからも、いったいいいくつの終わりを経験すればいいんだろう。

 

『思い出せないほどの長い時間がたって、彼女の中のその揺れが収まった時、彼女の中の何かが永遠に消えた。彼女はそれをはっきりと感じることができた。何かが終わったのだ。』

(中略)

『そのことばを思いだすたびに私はこんな風に思うんです。私の人生は既に多くの部分を失ってしまったけれど、それはひとつの部分を終えたというだけのことであって、まだこれから先何かをそこから得ることができるはずだってね』

(中略)

『自分自身の体験によってしか学びとることのできない貴重な教訓です。それはこういうことです。人は何かを消し去ることはできない・・・・消え去るのを待つしかない、ということです・・・・(「回転木馬のデッド・ヒート」より)』

消し去ることはできない、消え去るのを待つしかない・・・

確かにそうだけれど・・・

それはちょっと・・・ 辛い。

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なぜか源氏物語②~光源氏さん、あなた・・・の巻~

「光源氏、30過ぎの中年の屈折した恋心・・・」

って、講師の先生は普通に仰っておられましたが、その度に

「ギクッ!中年・・・、確かにそうだが・・・」と、若干素直には聞けない自分がそこにいる。

 

ところで、光源氏さん、あなた、ちょっとやりすぎじゃあありませんか?

確かに夕顔さんのことがすっごく好きだったのは理解できますけれど、その娘さんを(少々、いや、たくさん?)苦しめすぎじゃあないですか? なんちゅうーか、頭がいいのは認めますが、さらにモテモテなのも認めますが、さらにさらに高貴な方であらせられるあなたからすれば、周りはみんな掌の上で遊ばせるような人たちに見えるってのも認めますが・・・、でもね、やっぱやりすぎです。人の心で遊びすぎです。ダメ!

さすがに、光源氏に感情移入して、入り込んで読み進めることは困難かな?だってまずいでしょ、やっぱり。

って、こんな感想を持ったってことは、読み方がいけないのでしょうか?

 

撫子のとこなつかしき色を見ば  もとの垣根を人や尋ねむ (26帖 常夏)

聡明な人(玉鬘)が、こんな歌を贈られて、そしてそこに含まれている意味を深く考えたとき、どんな気持ちになったんだろう?って考えると、せつなくなります。

光源氏、やりすぎ・・・。

 

ところで、田辺聖子さんの著書にあるのですが、この帖について書かれたところに、

『源氏はいまは、あけてもくれても玉鬘のことで心を占められている。(中略)

中年の恋に迷妄は尽きない。』

中年の恋って・・・。

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今年は「村上春樹」⑩~ねじまき鳥クロニクル 1~

ブログに書いていくペースが、読み進めるペースに合いません。読み終わった本が溜まっています。

よって、一冊の本を終わらせてから次へ、とはいかないで読み終わった(読んでる最中も含む)本の中から、随時気に入った、心に残った、考えさせられたフレーズを書き散らしていくことになることをお許しください。

 

ちょっと長いけれど、最近非常に考えさせられた部分を書き記します。

『誰かと係わることによって長い間感情的に乱されるということは、僕にはほとんどない。不愉快な思いをして、それで誰かに対して腹を立てたり苛立ったりというようなことはもちろんある。しかし長くは続かない(中略)つまり僕は、何かで不愉快になったり苛立ったりしたときには、その対象をひとまず僕個人とは関係のないどこか別の区域に移動させてしまう。そしてこう思う。よろしい、僕は今不愉快になったり苛立ったりしている。でもその原因は、もうここにはない領域に入れてしまった。だからそれについてはあとでゆっくりと検証し、処理することにしようじゃないか、と。そうして一時的に自分の感情を凍結してしまうわけだ。あとになって、その凍結を解いてゆっくり検証を行ってみて、まだたしかに感情がかき乱されるということもある。しかしそのようなことはむしろ例外に近い。しかるべき時間の経過によって、大抵のものごとは毒気を抜かれた無害なものになりはてている。そして僕は遅かれ早かれそのことを忘れてしまう。・・・・(「ねじまき鳥クロニクル」より)』

なるほど、こんな方法があったんだ・・・。

と思って、最近意識的に試しています。

途中経過は・・・、

自分に余裕があるときは、上記のことを意識する余裕もあるわけで、そこそこ「できるんじゃない?」と思えるけれど、問題は『カチーン』ときた余裕のなくなったときです。意識し始めてから『カチーン』がないからまだ分からないけれど、もしそこでも上記のことを(少しだけでもいいから)意識できたら、人生が変わる気がする。

でも、無理かな??? とも思うなー。

でも、でも、意識してたらいつかはできるのかな???

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今年は「村上春樹」⑨~回転木馬のデッド・ヒート 2~

これは来た!まさにその通り。自分に最も欠けている視点。

『相手の中に人並みはずれて崇高な何か、鋭敏な何か、温かい何かをさぐりあてる努力をするべきなのだ。どんなに細かい点であってもかまわない。人間一人ひとりの中には必ずその人となりの中心をなす点があるはずなのだ。(中略)それがどれほど陳腐にひびこうとも、いちばん重要なポイントは愛情と理解なのだ。・・・・(「回転木馬のデッド・ヒート」より)』

相手に対する敬意、それは愛情と理解。それを持って人に接する。それで開けない人間関係なんてあるんだろうか?

確かにそうだよ。君はどんな人と友人になりたい?と聞かれれば、自分の最も(自分で考える)自分を成している根幹に気付いてくれる人、目を向けてくれる人、共感してくれる人、もっと単純に、興味を持ってくれる人なんだろうなって思う。

でもその反面、

忙しすぎ、才能がありすぎ、やるべきことが多すぎ、自分に対する興味が大きすぎる(ダンス・ダンス・ダンスより引用)現実の自分たち・・・。

 

「理解されることを望むより、理解する努力をしなければ。さらに月並みだけれども、愛されることを望むより、まず愛さなければ。」

自分ばっかり見てちゃダメだ。

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なぜか源氏物語①~はじまりの巻~

まずはじめに断っておきますが、

自分は、源氏物語を読んだことがない。

が、何の因果かそれとも幸いか、今後源氏物語(以下、源氏)に触れていくことになりました。そこで、触れる(本に触れる、講義に触れる、心に触れる)度に、何がしか書いていこうと思っております。今日はその一回目。

 

近くの大学のオープンカレッジで源氏の講義を受けることになりました。というのは、源氏の講義が受けたかったからではありません。自分が参加できる曜日と時間に、それしかなかったからです。

ただ以前より、学問の上では最も信頼している人から、「日本人でありながら、源氏物語に触れないのはいかがなものか?」と言われていたし、その人の授業(源氏に関する)を見学していると、単純に「自分も学びたい」と思ったいたこともあるし、まあ、自分が空いている時間にその講義があるのも何かの縁だなって思ったこともあるので受講することに決めました。

 

本日は、25帖 『蛍』

最も響いたこと、

「この時の光源氏は35歳ぐらい、当時は40ぐらいで”初老”・・・初老・・・しょろう・・・」

のっけからKOパンチを喰らった気分です。

さらに、この帖の主人公である花散里さんは、すでに(自らの意思で)現役を引退なさっている。(にも関わらず、歌はなかなかきわどいもので、自分は勝手に”人の業の深さ”なんてことを考えていました)

その駒もすさめぬ草と名に立てる  汀のあやめ今日や引きつる

人間関係や前後関係などなど、いろいろと解説されると、上の歌が(最初に見た時は単なる言葉の羅列にしか見えなかったものが)活き活きと(生々しく?)呼吸をし始めたことにビックリしました。

源氏物語・・・おもしろいかもしれない。

さっそく講義終了後、講師の先生にお薦めの文献を聞いて、構内の書店で購入してきました。

何はともあれ、また一つ新しい扉を開けることができました。悪くない。

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今年は「村上春樹」⑧~回転木馬のデッド・ヒート 1~

『僕は僕自身が楽になるためにこのようなスケッチを書き、世間に対して公表しているわけではない。(中略)少くとも今のところこのような文章を書くことによって僕の精神が解放されたという徴候はまったく見えない。(中略)少くとも文章による自己表現は誰の精神も解放しない。(中略)自己表現は精神を細分化するだけであり、それはどこにも到達しない。もし何かに到達したような気分になったとすれば、それは錯覚である。・・・・(「回転木馬のデッド・ヒート」より)』

えっ、そうなの? ”書く”ことにより、達成感なり到達点なり、得るものがあるんじゃないの?

『人は書かずにいられないから書くのだ。書くこと自体には効用もないし、それに付随する救いもない。・・・・(「回転木馬のデッド・ヒート」より)』

なるほど・・・・

『他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていくことになる。(中略)我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。(中略)それはメリー・ゴーランドによく似ている。(中略)どこにも行かないし、降りることも乗りかえることもできない。誰をも抜かないし、誰にも抜かれない。(中略)事実というものがある場合に奇妙にそして不自然に映るのは、あるいはそのせいかもしれない。・・・・(「回転木馬のデッド・ヒート」より)』

これがこの本「回転木馬のデッド・ヒート」の序章である。

 

あっ、そうそう、序章が結ばれる直前に、

『もしそれぞれの話の中に何か奇妙な点や不自然な点があるとしたら、それは事実だからである。読みとおすのにそれほどの我慢が必要なかったとすれば、それは小説だからである。・・・・(「回転木馬のデッド・ヒート」より)』

と、きます。

 

村上ワールドに散りばめられ、その根底をなしている

「どこにも行けない無力感」

そしてまたそれと同時に、様々な場所に散りばめられているメッセージ

「踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考え出したら足が停まる・・・・だから踊るんだよ。音楽の続く限り (「ダンス・ダンス・ダンス」より)」

どちらもまた真実。

 

ところで、今日どうしても自分で取りたい電話があった。

なんとなく「あっ、これだ」と思ったけれど、人に取られた。そして(やはりこれも思っていた通り)うれしい報告だった。

直後に変わってもらった電話口で、ひとしきり喜びを伝えたあと言われた言葉、

「何でそんな微妙な喜び方なの?」

そんなことはない、ほぼ100%喜んでいた。ホントうれしかった。でも、「これで、もう教えることもなくなるのかなー」と思っていたことも事実。

誓って言うけど、これは恋心じゃない。それとはかけ離れている。ただ、うまく説明できないけれど、たぶんお互いの波長が合っていて、今までにこんなに自然に教えられることはあまり(ほとんど?)なかった。だからとても楽しかった。自分が自然になれる相手はそんなにいない。

 

僕は”どこにも行けない”

人はただ、僕の”入り口”から入ってきて”出口”から出ていく

僕だけが”どこにも行けない”

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今年は「村上春樹」⑦~ダンス・ダンス・ダンス 5~

『僕は早合点しすぎる。そして勘違いもはなはだしい。』

ってことに最近、やっと、今になって、ようやく気付いた。

むしろ自分は冷静で、(いつでもとは言わないまでも)かなり正確に状況判断できる人間だと思っていた。

今まで自分が起こしてきた数々の失敗の大きな要因がこれだったんだなって思った。

 

ところで、ダンス・ダンス・ダンス

『(前略)ただ単に受け入れた。そのまま信じたわけでもないし、信じなかったわけでもない。(中略)自然に滲みこませただけだった。それはあくまで可能性にすぎなかった。しかしその可能性の含んでいる力は圧倒的であり致命的だった。(中略) 可能性はあるのだ、と僕は思った。そしてそう思った瞬間に何かが終わったような気がした。とても微妙に、そして決定的に、その何かは終わってしまったのだ。何かとはいったい何だ? (中略)僕はまた孤独になった。(中略)僕はたまらなく孤独だった。・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

・・・話す言葉が見つからない。 可能性が含んでいる圧倒的で致命的な力。何かは終わってしまった、そして終わってしまった何かとは何だ? 実体のよく見えない、しかし”終わって”しまった何か。そんなものに囲まれながら生きている気がする。 だから今、必死にあがいてるんだろう。そんな気がする。

 

『様々なものが失われていく、と僕は思った。失われ続けている。いつも一人で取り残されてしまう。こんな風に、いつもこんな風に。・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

ところで、僕には失われる何かが、その失われる何かすら・・・あるんだろうか? たぶん、あるんだろうな。あるはずだ。そう思いたい。

 

『いったい何処までが現実なんだろう、と僕は思った。(中略)いったい何がオリジナルの現実なんだろう?考えれば考えるほど、真実が僕から遠ざかっていくように感じられた。(中略)でもそれは現実であるはずだった。何故ならそれが僕の記憶している現実だからだ。それを現実としてみとめなくなったら、僕の世界認識そのものが揺らいでしまうことになる。・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

『僕はたまらなく孤独だった。僕は何かにつかまりたいと思った。しかしまわりを見回しても、つかまるべきものは何もなかった。(中略)僕は泣きたかった。でも泣くことさえできなかった。・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

もちろん、いつもじゃない。ほんと、ごく時たまだけれどこう感じることがある。そして堪らない気分になる。

 

『でもたぶん駄目だったろうと僕は思った。結局彼ははじめから決めていたのだ。彼はきっかけを待っていただけなのだ。(中略)それが唯一の出口だということが彼にはわかっていたのだ。彼はその出口の扉のノブにずっと手をかけて待っていたのだ。(中略)いつかは扉を開けなくてはならないのだ。それは彼にもわかっていた。彼はただきっかけを待っていたのだ。・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

全部が全部じゃないけれど、思い起こしてみると「実ははじめから決めていた(決まっていた)」ってことは、よくある。いや、よくあるどころではなく、ほとんどがそうかもしれない。理屈ではなく、感情で、感覚で、本能で、決めていること。実にたくさんある。 ただ、本人も(いや、本人が一番かもしれない)そのことに気付いてないだけなのかもしれない。

だから、次みたいになるんじゃないかな。

『単純そうに見えても単純でない。根っこと同じだよ。上に出てる部分はちょっとでも、ひっぱっているとずるずる出てくる。人間の意識というものは深い闇の中で生きているんだ。入り組んでいて、複合的で・・・・・解析できない部分が多すぎる。本当の理由は本人にしかわからない。本人にだってわかってないかもしれない。・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

 

いろいろなことを僕に教えてくれた(考えさせてくれた?気付かせてくれた?)このダンス・ダンス・ダンスだけれど、最後に次のフレーズで終わりにしようと思う。これまた、今の自分にピッタリ、そして必要なもの。

『何か物を書くのも悪くないな、と僕は思った。僕は文章を書くことは嫌いではないのだ。(中略)僕は何か自分の為に文章を書きたいというような気持ちになっていた。 そう、僕はそれを求めているのだ。・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

『耳を澄ませば求めているものの声が聞こえる。目をこらせば求められているものの姿が見える。(中略)標語じゃない。生きる姿勢を言葉にしただけだ・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

 

こうやって自分を投影しながら、共感しながら、一体化しながら、入りこみながら小説を読んでいくのは、もしかすると邪道なのかもしれない。小説はあくまでも小説、といった態度の方が正当な読み方なのかとも思う。

でもこれが自分のやり方。自分の生きる姿勢。自分の求めるもの。だって、今の自分にはそれしかできないから。

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今年は「村上春樹」⑥~風の歌を聴け 1~

なんと、今回が60件目の記事です。

昨年の11月22日にこのブログを始め、

『手を出さない理由はそれこそ百万遍も付けられるでしょうけど、どうせ理由を付けるのならば「手を出す理由」を探してみようかと。そんな感じで、気の向くまま、思いつくまま、書き連ねていければと。』

と書き始めたわけですが、幸いなことに今まで一度も「書くことがない」状況にはならずにここまでやってこられました。

さらにアクセスも900になろうとしていて、1000が見えてきました。

来訪してくださったみなさん、こんな個人的に書き散らしてきた話に付き合ってくださって本当にありがとうございます。

 

ところで、風の歌を聴け

(ダンス・ダンス・ダンスに関して、もう少し書きたいことも残っているけれど、今日はこのタイトルでどうしても書きたかったので・・・)

『でもね、俺は俺なりに頑張ったよ。自分でも信じられないくらいにさ。自分と同じくらいに他人のことも考えたし、(中略)だけどさ、時が来ればみんな自分の持ち場に結局は戻っていく。俺だけは戻る場所がなかったんだ。・・・・(「風の歌を聴け」より)』

時が来れば・・・・戻っていく・・・。

分かっているさ、そんなこと。あたり前のことじゃないか。

ただ、そのあたり前を”認めたくなかった”だけ。

「分かっている」けれど、「認めたくない」ことがあったってよくはないかな?

僕の戻る場所はどこなんだろう?って僕が言うとおかしいのかな?

たぶん、みんなは「君には戻る場所がちゃんとあるじゃないか」と言うと思うけれど、

本当にそれが分からなくなる時がある。

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今年は「村上春樹」⑤~ダンス・ダンス・ダンス 4~

昨日の晩、「SHEEP」というBARを”偶然”発見した。

その店は、思ったとおりの店だった。自分の直感を信じて良かった。行動して良かった。

それにしても、SHEEP(羊)の暗示するものは何なんだろう?

 

ところで、ダンス・ダンス・ダンス

『ある種の人間はそういうものを手に入れることで差異化が達成されると思ってるんだ。みんなとは違うと思うのさ。そうすることによって結局みんなと同じになってることに気がつかないんだ。想像力というものが不足しているんだ。・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

昔の自分は、「ある種の人間」を軽蔑していた。今の自分は、自分が「ある種の人間」であることを自覚している。

 

『中途半端なままで物事を放り出すことはできない。そんなことをしたら、その中途半端さを次の段階にまでずるずると引きずっていくことになる。(中略) 僕はいったいどうすればいいのだろう? でもどうすればいいのかは僕にはわかっていた。 とにかく待っていればいいのだ。 何かがやってくるのを待てばいいのだ。(中略) じっと待っていれば、何かが起こる。何かがやってくる。(中略) それはいつか必ず動くのだ。もしそれが必要なものであるなら、それは必ず動く。 よろしい、ゆっくり待とう・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

もう一度20代に戻ってやり直したいと思う最大の要因がこれかな。自分は動きすぎる。そして自ら困難な状況にハマッていく・・・。それがかっこいいと思っていた時期もあったけれど・・・。 

 

『どうしてだろう? どうして僕は君といるのが好きなんだろう? 歳もこんなに違うし、共通する話題だってろくにないのに? それはたぶん君が僕に何かを思い出させるからだろうな。僕の中にずっと埋もれていた感情を思い起こさせるんだ。(中略) 君と一緒にいると、時々そういう感情が戻ってくることがあるんだ。(中略) そういうのって悪くない。それがどれほど素敵なことかというのは君にもそのうちにわかる。・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

その通りだよ、ホントその通り・・・。全面的に、100%、完全に認めざるをえない。

 

『ねえ、いいかい、ある種の物事というのは口に出してはいけないんだ。口に出したらそれはそこで終わってしまうんだ。(中略) それは礼儀の問題であり、節度の問題なんだ。君はそれを学ぶべきだ ・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

僕はそれを今までに学んでおくべきだった。いや、少なくとも、今からでも学ぶべきだ。

 

確かに難しいな (中略) だから人は悔いの残らないように人と接するべきなんだ。公平にできることなら誠実に。そういう努力をしないで・・・(中略) 難しいことだよ、とても(中略) でもやってみる価値はある(中略) 努力がすべてだ・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

やってみるよ。

昔、一時期「努力」って言葉が嫌いだった時期があった。”ライト”に”ナチュラル”にがかっこいいと思っていた時期が。それを人間関係にもあてはめていたと思う。

自分は誠実だったのかな? あまり(いや、かなり)自信がない。

 

『そんなものはあとかたもなく消え失せてしまう。あっという間だ。人というものは自分に一いちばん似合った場所にその影を残していく。(中略) そしてそれも、そのかろうじて残った不安定な影も、あっという間に消滅してしまう。・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

僕の影はどこに残るんだろう・・・。

 

最近、本当によく考える。僕はどこに立っているんだろう。そしてどこに行こうとしているんだろう。

でも、考えていることはそれだけじゃない。

「(どこかはわからなくても)それでも僕は立っている。そしてどこかには行くんだ。それが唯一分かっていること。そう、それだけが確実なこと。」

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今年は「村上春樹」④~ダンス・ダンス・ダンス 3~

ダンス・ダンス・ダンス

自分にとっては示唆に富みすぎている。ホント、20代の時に一度読んでおきたかった。痛切に感じすぎる。

『で、ぼくは思いました。この人と一緒になったらたぶん僕はいつか後悔することになるだろう。でも一緒にならなかったら、僕の存在そのものが意味を失うことになるって。・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

そんな大袈裟なことじゃないけれども、「この扉を開ければ、この一歩を踏み出せば、この一言を言ってしまえば・・・、いつか必ず後悔すると思う、でも踏み出さなかったら、行動しなかったら自分が自分じゃなくなる」って行動したことが、過去に何度あったろう。そして何度失敗してきただろう。そして何度後悔しただろう。でも・・・何度「これがオレだよ」って思っただろう。

去年のことだって、今なら少しこう考えられる。

「それがオレだよ」

「オレにはそうするしかできなかったんだよ」

 

『すれちがいだ、何処にもいけない。(中略)何処にもいけない。(中略)僕の肩に鼻先をつけて泣いた。当たり前だよ、と僕は思った。僕だって君の立場だったら泣く。当たり前のことだ。・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

当たり前か・・・

 

『「あなた料理が上手いのね」(中略)「上手いんじゃない。ただ愛情をこめて丁寧に作っているだけだよ。それだけでずいぶん違うものなんだ。姿勢の問題だよ。様々な物事を愛そうと努めれば、ある程度までは愛せる。気持ちよく生きていこうと努めれば、ある程度までは気持ちよく生きていける」(中略)「それ以上のことは運だ」・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

精一杯、力を尽くす。そしてその後は”運”しだい・・・。ホントその通りだと思う。

 

『「暗示性が具体的な形をとるのをじっと待って、それから対処すればいいんだと思う。要するに」(中略)「待てばいいということだよ」(中略)「ゆっくりとしかるべき時が来るのを待てばいいんだ。何かを無理に変えようとせずに、物事が流れていく方向を見ればいいんだ。そして公平な目で物を見ようと努めればいいんだ。そうすればどうすればいいのかが自然に理解できる。でもみんな忙しすぎる。才能がありすぎて、やるべきことが多すぎる。公平さについて真剣に考えるには自分に対する興味が大きすぎる」・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

ここだ、このフレーズを何年も前から心に留めておければ・・・。

「暗示→具体を待つ」「公平な目で見る」「自然な理解」

でも、

「忙しすぎる」「才能がありすぎる」「やるべきことが多すぎる」

そして極めつけ、「自分に対する興味が大きすぎる」

 

「それでも自分の様々な行動は変えられなかったかもしれない。でも”心に留めて”おければ、(もちろん全部とは言わないけれど)いくつかの結果は変わっていたかもしれない。そう思うとちょっと悔しい」

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今年は「村上春樹」③~ダンス・ダンス・ダンス 2~

今日、近くの大学のオープンカレッジ(冬季集中講座)の申し込みをしてきました。

内容がどうのではなく、受講することに意義があると思ってます。

http://jidaiokure-blog.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_2e96.html

にも書いたけれど、習い事をする(≒意識を外へ向ける)ことの一環として、人の話、講義を聴いてみたい。有意義なのか?どう感じるのか? は、受講してみてのお楽しみ。

 

ところで、村上春樹~ダンス・ダンス・ダンス~について、

『奇妙なことには人間にはそれぞれピークというものがある。そこを登ってしまえば、あとは下りるしかない。(中略)そして突然その分水嶺がやってくる。だれにもわからない・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

これなんだよ、実際ここ数年自分を苦しめていた感覚は。ここを読んだとき、カウンターパンチを喰らった気がした。

「自分はいつピークを過ぎてしまっていたんだろう?」

そればかり考えていた時期があった。「いつ?」「いつ?」「いつ?」 そして、そこから生まれるのは、ピークを過ぎて衰えていく一方の自分の未来(と呼べるかどうかも怪しいもの)への、漠然とした、でも底無しの”不安”

でもね、昨年の半ばからちょっと感覚が変わってきて、

「本当に過ぎたのか?」「仮に過ぎてしまったとして、本当に戻れないのか?」「仮に過ぎてしまって戻れないとして、もう一度ピークを作ることはできないのか?」

と、思い始めた。それは可能なんじゃないか?と。生き方一つ、考え方一つ、行動一つ。全てはそこから・・・。

 

「悪あがきでもいい。後で振り返ったとき、無駄な努力だったってことでもいい。いろんな扉を開ける。そしてやれることをやる。自分のピークがいつなのか(だったのか)を考えるのは、走ること(←比喩としての)をやめた後で充分だろ。」

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今年は「村上春樹」②~ダンス・ダンス・ダンス 1~

『そういうのはほ放っておくと体の中でどんどん膨らんでくることがある。抑えがきかなくなる時があるんだ。時々空気抜きしないと、爆発しちゃう。ボンッと。わかる?そうなると生きていくのが難しくなる。何かを一人で抱え込むのというのは辛いことなんだ。・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

まさに、今日がそうだった。ほんの一瞬だけど、目の前の現実を突き崩しそうになった。自分の中から、まさにフォースの暗黒面のようなものが・・・、そしてダークサイドに落ちそうになった。

人に頼るってことは、その相手に自分の負担の一部を背負わせることになると思うから、できることなら避けたいんだけれど、今日は無理だった。

聞いてくれた君、ごめん、でもありがとう。ホント助かった。

 

『彼は他人に恐怖を与えたりはしなかった。彼の存在が知らず知らず大きくなりすぎた時にはにっこり微笑んで冗談を言った。立派な冗談である必要はなかった。ただ感じよくにっこりとして普通の冗談を口にすればいいのだ。・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

自分にできるかなー。でもしなきゃ。だって、自分は決めたんだから。したいことではなく、して欲しいことをするって。

そうだよ、関係を壊すために行動してるんじゃないし、新しい関係を作るために行動しなくちゃいけないんだから。

「そっか、もしかすると自分は、こんな時のために今までギャグセンスを磨いてきたのかもしれない。苦しいときこそ笑い飛ばしてやればいいんだ。よし、周りを笑わせてやる。できるかもしれない。できる気がする。」

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今年は「村上春樹」①~序章~

ここ2年間ぐらい、読書と言えば「スターウォーズ」三昧でした。それ以外のものもチョコチョコ読んではいましたが、基本スターウォーズばかりでした。

とうのも、映画の前後の世界を記した小説(ルーカスフィルム公認のもの)が、実にたくさん存在しており、映画の詳しい背景を知りたいと思い読み始めた(と言っても映画の後の話中心に読んでいたのですが)小説にドップリはまり、気付いたら2年経っていました。

たぶん、100冊くらい読んだと思います。

 

そこにひとまず一区切りがついたので、次はこれでいきます。

今年は「村上春樹」三昧

自分の周りで、今かなり読まれていることもあるし、前々から一度は集中的に読んでみたいと思っていたこともあるし、何より、先ず初めに読んでみた『ダンス・ダンス・ダンス』が強烈におもしろかった。ついでに、実は家に何冊か存在していた。

今非常に後悔しています。これ(ダンス・ダンス・ダンス)を何でもうちょっと早く(少なくとも2ヶ月、できれば初版が出た当時に)読んでいなかったのか? かなり悔やまれる・・・。

村上さん、激しく示唆に富んでるうえ、的確にポイントを突いて迫ってくれるじゃないですか。さらに・・・おもしろいじゃないですか。やられました。今年は是非読ませてもらいます。

「うーん、こんなふうに生きてもみたかった。少なくとも知っていたかった、残念。でもこれから」

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