教育

秋の「オープンカレッジ」申し込みました

今春、近所の大学(有名な女子大!)のオープンカレッジ(生涯学習ってやつですね)を受講しました。

学校に通ってみたかったのと、その講座(源氏物語)に興味があったからでした。

 

その後、夏の講座は予定の合う講座がなく断念。

そして今度、秋の講座に通うことを決め、受付を済ませました。

今回は、「カウンセリング」の講座です。

 

自分の仕事自身が他者との関係で成り立っているものなので、何かの役に立つのではないか?ぐらいの軽い気持ちで受講します(笑)

ですが、それ(役に立つかどうか)以上に、前回同様「とにかく学校に通いたい=学びたい」という気持ちの方が強いように思います。

 

秋の講座の開始は10月からです。

状況などは、たぶん今後このブログでも書いていくことになるでしょう。

今から楽しみです。

自分の成長につながる(かもしれない)ことに向かうのは、とにかくワクワクします。

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昨年の今頃、僕は白馬にいた

昨年の今頃は、長野県の白馬にいました。

子供たち(30人ぐらい)を連れて行って3泊4日の

「勉強&野外体験合宿」でした。

本格的に勉強もしたし、白馬大池への軽い山登りや、近くの川での鱒の掴み取り、自然観察もしたし、夏の定番の花火にバーベキューも。それから、真っ暗な夜中の田んぼ道を歩いての買出しも、妙に現実感が希薄で不思議な楽しさがありました。そうそう、有志を募って朝のランニングも実施しました。

星空観察の名の下、先生も生徒も思い思いに農道に寝っ転がってずーっと星を見ていたのが、ホント昨日のことのように思い出されます。その時の、日中の日差しを宿したアスファルトの仄かな温もりも。

企画から場所の選択、そして下見や実際の運営と、自分が中心になって行ったので、達成感もひとしおでした。支えてくれたスタッフや子供たち、そして保護者の方にも感謝です。

今年はいくつかの事情があって実施しなかったけれど、やはり「また行きたいなー」と今、痛切に感じています。

数学や理科を教えるのは嫌いじゃないし、教室内での授業も嫌じゃないというか、むしろ楽しいです。でも、あの合宿中に感じた

「本来の自分の居場所はここなんじゃないか?」

と言った感覚とは比べようもありません。

もちろん自分自身が行きたいのもあるけれど、

大きな自然の中に、
本来の日本が持っていた風景の中に、
そして集団としての達成感の中に、

ぜひ、子供たちを連れて行ってあげたいという気持ちが非常に強くあります。子供たちに(子供のうちに)体験させてあげたいことがあります。

「勉強も全力、そして遊びも全力」

だって、そのどちらにも喜びが詰まっているから。

そんな場所でありたいなと思っています。

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記憶に残る(残す)には②

先日の続き・・・

 

興味を持ったものは覚えられる。

好きなものは自然と頭に入る。

怖かったことは忘れられない。

感動したことは心に刻まれる。

自分の言葉に置き換えたもの(=自分なりに理解したもの)は頭に入りやすい。

忘れにくい音楽(リズム)と結びついたものは頭から消えてくれない。

そして・・・

くだらない(けれど、くだらなさが逆におかしい)ものは、意外と頭に残る。

 

上記のものは、思いついたまま書き連ねてみたんだけれど、こんな様なことを意識しながら授業を(=セリフを、例題を、雰囲気を、そして自分という人間のキャラを)組み立てています。

今回、定期テストや早めに出た成績などで「かなりの好結果」を多数見ることができて、じゃあ、実際に自分が何をしてきたのか?を具体的に挙げてみると、(もちろんこれは、だから良い結果がでた!と言いたいのではなくて、自分なりに功を奏した可能性のあるものを列挙して、さらに次につなげたいと思っているだけのことです)

◎できない時には徹底的に居残りさせた。そしてそこで最後に『やった!できた!最高に嬉しい!』と言ってもらえるようにした。できた瞬間の感動の握手は必須。「やったじゃん、できるようになったじゃん」「うん、嬉しい。ありがとう」という共通の感動体験を味あわせた。(もちろん、全てがそう上手くいったわけではない)

◎今まで以上に休み時間などに子供たちと話をした。自分という人間に興味を持ってもらえなかったら、自分の授業に興味を持ってもらえるわけがない。幸い、子供たちといろいろ話すのは全く苦手ではないので助かっています。その結果(たぶん)子供たちの多くは今まで以上に自分の授業を(少しは)楽しみにしてくれているようになったと思う。

◎公式の覚え方とともに使い方も暗記させた。例:(X+Y)の2乗は「前を2乗して後ろを2倍したものに前をかけて、後ろも2乗」と口ずさみながら計算させる。

◎くだらない暗記方法を編み出す。これをここで文章で説明することはかなり難しいですが、ストーリーをつくるとかリズムに合わせるとか、いわゆるゴロ合わせとか、とにかく思い出すきっかけが存在する覚え方をするってことです。

◎自分が活き活きとした面白い人間になる。だって、自分が子供だったらそんな人の授業が受けてみたいから。面白い人(=先生)というのは、一般的に最も大多数の子供たちを幸せにすると思う。お笑い番組を見ている子供たち(大人も?)の数は圧倒的である。自分はお笑いは(ほとんど)見ないが、「笑う」ことより「笑わせる」ことが得意だという子供の頃からの能力があるので助かっています。

◎本気で叱る。だって本気だから。一瞬「こえ~」と思われることは、最終的にはマイナスにはならないと思います。

◎授業内容で「すげー」「おもしれー」ってものを提示する。実際に数学でも理科でも内容は面白いものの方が多いです。興味を持たせられなければ、また先生に対して興味がなければ(多くの子供が)聞く気も起きないから、授業内容を面白がってはくれないけれど、興味さえ持たせられて、聞かせることさえできれば、実際の内容は面白いです。究極的には、先生の仕事は「その真の学問的な面白さ」に”向き合わせる”ことなのかしれないと思っています。 

 

以上、書き連ねてきたけれど・・・

うーん、なんか上手く伝わらない気がするなー。でも、まあこんな感じです。

 

そして最後に、最も重要(と思っている)ことを一つ書かせてください。

 

自分(講師、先生)自身が、

授業自体を、

子供たち自身を、

授業内容(学問的内容)を、

「面白いなー」と思えていてワクワクしていれば、それが伝わらないはずがない。

「人が最も興味を持つものは人自身であり、そしてその人が興味を持っているものに対してである」と信じているような気がします。

だから、授業が楽しくなくなった時は・・・ 辞め時なんだろうなーと思います。

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記憶に残る(残す)には①

「ちゃんと教えているのに、全然覚えてくれない」

「覚えるだけのことが何でできないの?」

 

自分のような「教育」に携わっている者の周りには、上記のような言葉が溢れています。(もちろん自分も愚痴る時があり、その意味では例外ではありません)

でも、わざと覚えない子供もいないし記憶力は千差万別。覚えられなくて辛いのは子供も同じ。(実際自分も、年齢を重ねてきた今、若かった頃とはあまりにも違う記憶力に愕然とすることがあります。だから「覚えられない子供」の気持ちが分かるような気がします)

 

でも、そんな「覚えられない子供」のほとんどは、『好きな曲』や『ポケモン』や『遊戯王』や『様々なゲーム』などは、普通に(それも驚くほど)しっかりと覚えています。

だから、たまに(暗記テストなどができなかった)子供と、「何で○○は覚えられるのに、勉強だと覚えられないんだろうね???」と話したりしますが、そんなの当たり前ですよね。

 

つまり、子供たちの中には「覚えられる人」と「覚えられない人」が存在するんじゃなくて、

「どんなジャンルでも覚えられる人」と「決まった(興味を持った、好きな)ジャンルしか覚えられない人」がいるってことです。

実際に自分は、子供の頃から「非常に得意な(スラスラ覚えられる)ジャンル」と「苦手な(頑張っても覚えられない)ジャンル」が存在しました。

好きで読んでいる本は(その気がなくても)丸々頭に入っていたと思うし、苦手としていた英単語はその逆。まあ、得意な(=興味を持てた=好きになれた)科目がそこそこあったお陰で、トータルとしては比較的「勉強のできる子供」でいられたけれど、もし自分があまりいろいろな事に興味を持てないタイプのの人間だったら、「ちょとしたことも覚えられない劣等生」となっていたかもしれません。

(余談ですが、今でも興味が有ること(=好きになること=執着すること)と無いことの差が激しくて困る時があります。でもまたその逆に、そこが自分の最も自分たる部分だとも思っています)

 

つまり、記憶に残るかどうかって、(一部の優秀生=特殊能力を持った人を除けば)興味を持てるかどうかが全てだと、今現在の自分は思っています。

好きなこと、好きな人にまつわること、面白いこと、(そして、それらの逆のこと)、すごく変なこと、なぜか頭に残るフレーズ、音楽的なもの、などなど興味を持って(持たされて?)記憶に残ることって、いろんなパターンがあると思っています。

昔、自分の授業を受けていた卒業生なんかと話をする機会があると、授業の内容よりも「楽しかった話」とか、その逆に「実にくだらなかった話」なんかをよく覚えていると言われます。

でも、それが真実です。

 

そこで、自分は今、どのようなことを心掛けながら(意識しながら)授業をしているのでしょうか?ってことは次回のお話です。(といっても、たいしたことはないのですが・・・)

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集団の中で生きる②

「集団を毛嫌いする人が増えている」

そう感じます。

 

自分が携わっている教育業界でも、空前の「個別指導ブーム」

(あくまで一般論として)特段の技量もない学生バイトに教えてもらって、通常授業(集団クラス)の数倍の授業料。5万円オーバーも珍しくない。それでもブーム。

 

個性尊重の掛け声の下、集団の中では生きていけない子供たちが増産されてきている。

そう思うのは自分だけなのか?

集団だからこそ達成できるものってあるんじゃないのか?

個性は、集団の中では創造できないものなのか?

身勝手を貫きたいだけの人も多いんじゃないのか?

他者に合わせることも、生きていく上では必要な能力じゃないのか?

そこから自分以外の他者を思い遣る心も培われるんじゃないのか?

 

個性が叫ばれる中、よく聞かれる言葉として「アイデンティティー」があるけれど、アイデンティティーの確立とか言ってて、実はそれは全く「集団」を否定していないどころか、集団の中における自己であることに気付いている人はどれほどいるのかな。

だって、アイデンティティーって、

「アイデンティティー(identity)は、広義には、「同一性」「個性」「国・民族・組織などある特定集団への帰属意識」「特定のある人・ものであること」などの意味」

なんだよ。

 

今の時代だからこそ、自分が所属している集団を『積極的に』確認していく必要があるように感じてなりません。

 

つづく・・・

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集団の中で生きる①

ちょっと思うところがあり、このようなタイトルの話を少しばかり繰り広げていこうかと思っています。

 

仕事柄、集団をまとめる立場にいます。

今までの自分も、集団によって鍛えられてきた部分が多いと思っています。

娘の幼稚園に関しても思う事があります。

 

ということで、ちょっと連載の予定です。

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「ヤル気」を・・・ その2

たぶん、自分の周りで、最も自分の影響を受けたのは妻だと思います。

スキー、山登り、ダイビング、食べ物いろいろ、様々な本・・・、最近ではランニング。

 

様々なものの中には様々な喜びや楽しみがあり、それに魅了されればその素晴らしさを他者に対しても黙っていられない。

つまり、本当に魅了されている人の周りには、その輪が(自然に)広がっていくものだと思います。

 

昨日書いた「ヤル気」の話、ちょっと反響があったので追記をしているわけですが、結局、ヤル気を出させる(あえて出させると書きますが)ためには、究極的には、自分自身がそのことに魅了されていなければ始まらない。だって、自分が魅了されてもいないものを他者に薦めて、「よし、やるぜ!」と思うのかな?

ということは、他者のためにも「まず自分がやりたいことは何なのか?」を見つめることが重要なのであって、本来、その範疇を越えるものに関しては、口を閉ざしておく方が賢明と言えるのではないでしょうか。

それ以外のことに関しては、資本主義社会において、いかにそのことが『得』を生むのか、人間関係において『得』を生むのか・・・と、訴えるのみになっていく気がする。

 

『僕は僕のためにどう生きるか、考えるのはその事ばかりです』

前々回のブログに書いた上記のセリフ。一見、独りよがりで自己中な意見のように見えるけれど、むしろこの生き方の方が他者を思いやっているように思えてならないのです。

僕は僕のためにどう生きるか?を追求した結果、他者にも影響を与えうる存在になるように思えてならないのです。

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ヤル気を出させるって???

お断り<今回のブログは、基本的には他所に書いた日記の移植です>

 

そもそも、「ヤル気」ってものは、人から出せ!と言われて出るものなのか?
との疑問はもっともです。

ですが、仕事上、そのヤル気を出させることができるのか?否か?ってことは非常に重要なことであります。


今日、そのことに関して改めて確認した(と自分では思っている)ことが3点ばかりありまして、それは

①まずは自分自身がヤル気に満ち溢れていなければならない。
②ヤル気のない人にヤル気を与えるのではない。その人が(必ず、絶対に)持っているヤル気に気付かせる。
③そのヤル気を行動に移す具体策を示す。

ってことです。

①は、まあ当然として、問題は②です。
一見ヤル気のなさそうな人(自分の場合は子供)に対して、「この人だって、必ずや自分自身の中に『なんとかしたい・自分を向上させたい』といった気持ちが内在している=持っている=埋もれている」と信じられるかどうか?
もし、他者のヤル気を左右できる人がいるのであれば、それを信じられる人=他者を信じられる人ってことになると思います。

ヤル気を出させるとは、

「(立派な)自分が(情けない)あなたのヤル気を引き出してあげよう!」

といったことではなくて、

「(一見、情けなくヤル気がなさそうに見える)あなたに、(自分自身を向上させたいといった夢・希望・熱望を実はしっかりと持っている、例え自分自身が気付いていないとしても持っていることに)気付かせる」だけのこと。

そして、それをお互いに信じられるのであれば、

「じゃあ頑張れ!」じゃなくて(頑張るって具体的に何?)
「じゃあ、まずこれやってみようよ」もしくは
「今までやってきたこれ、続けてみようよ」といえばいいだけのこと。

言い換えるならば、そう言えるように接していなければいけないんじゃないかな。



大人になるまでの間に、
「自分だってまんざらでもないんじゃないか?」
「本気になれば、行動に移せる人間だ」
って自信を、少しでもいいから掴ませてあげたいなー。
と願ってやまない一日でした。


そしてそんな自分が、自分自身のことをそう思えていなければ、話は始まらないわけです。

責任重いです。

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続、10万人とハムスター

前回のブログ「10万人とハムスター」

いくつかの反響の中で、伝わりきれてないなと思ったことがありました。

 

僕は、こう考えています。

自分にとって(自分たちにとって)どうしようもないほどの圧倒的な現実が存在する。言い換えれば、世の中には「自分の力で何とかなるもの」と「自分の力では何ともならないもの」が厳然と存在する。

その「自分の力では何ともならないもの」に対して、何ともならないなら見なくても(存在を気にしなくても)いいじゃないか、という考えは間違っていると思う。

なぜなら、僕たちは、その圧倒的な存在の前ではあまりにも無力であり、その無力であることを『思い知らされる=実感する』ことが、「それならば、力の及ぶ(かもしれない)ことに対しては力を尽くそう」という『強い行動原理=思い』になるから。

 

ミャンマーや中国での大惨事は、他人事ではない。

以前のブログに書いた

『目に見えるものが本当のものとは限りません。ぼくの敵はぼく自身の中のぼくでもあります。ぼく自身の中には非ぼくがいます。・・・・(「かえるくん、東京を救う」より)』

君が僕かもしれないし、僕が君かもしれない。ミャンマーで洪水に押し流された人は、中国で瓦礫に埋もれてしまった人は、確かに遠い国の見も知らない人ではあるけれども、あれが自分であってもなんらおかしくない。それは、単に可能性の問題だけであって、ありえることである。

だから・・・・・

今の現実の生に、身の回りの手の及ぶ範囲のことに『力を尽くす』

それ以上でも、それ以下でもない。

そんな気がしています。

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10万人とハムスター

<違う日記にも書いたんだけれども、こっちでも書きたかったので載せます>

 

 

「ミャンマーって国で、ハリケーンで人が10万人ぐらい死んだらしいって知ってる?」

「・・・」

「じゃあ、それ聞いて、本当に悲しくなったりショック受けたり落ち込んだりした人?」

「・・・」

「じゃあ、もし自分の家でハムスターを飼ってたとして、それが死んじゃうと、かなりショック受けそうな人?」

「・・・」

「ってことは、知らない国の10万人より、一匹のハムスターの方がみんなにとっては大きなことなんだよね、実際に」

「・・・」

「あのね、それをダメって言うつもりは全くないんだよ。それが人間ってものだよ、実際に。見ず知らずの国で人がたくさん死ぬことより、例えば友達に言われた一言なんかの方がずーっと気になるんだよ、人って。」

「・・・」

「じゃあさ、ちょっと実際にミャンマーで起こったことを想像してみようよ(人が10万人も死ぬってことや、今ミャンマーで見られそうな(壮絶な)光景を説明する)」

「・・・」

「ついでに、そこに自分がいる事も想像してみて。そして家族もそこに住んでることも。もしできるなら、自分がそこに住んでいると想像するより、そこに住んでいたミャンマーの人にも家族があり子供がいて赤ちゃんもいて家庭があって幸せがあって、今の君たちのような日常もあって恋人もいて笑顔もあって・・・ってことを想像してごらん」

「・・・」

「でしょ。実際にそうすれば、ハムスターどころじゃないことが分かるでしょ。でも、繰り返すけれど、さっきの君たちの反応は『仕方がない』ことなんだよ。『普通のこと』なんだよ。だから『ダメって言う気はない』って言ったでしょ。でもね、こうも言いたい『だからといって良いことでもない』って。人ってね、意識的に想像力を働かせなければ、他人の苦しみなんて想像できないものなんだよ。っていうか、どんなに想像力を働かせているつもりでも、実際には人の苦しみって本当には理解できないんじゃないのかな。自分(僕は自分のことを先生とは呼ばない)だって同じだよ。自分の家に子供が生まれる前と今とでは、子供が事故や事件にあったニュースを聞いた時の受け止め方が全然違うもん。今のほうが何倍もショック受けるし動揺するよ」

「・・・」

「自分の今置かれている立場だけで、良い悪いとか、好き嫌いとか、気にするしないとか感じるだけより、もう少しだけ想像力の範囲を広げれば、いろいろと見えてくるものもあるんだよ。」

「・・・」

「そう、そのためには、かなり積極的に色々な角度からの情報を仕入れた方がいいよね。世の中には『知らなかった』で済まないものもいっぱいあるよ。無知でいることは『罪』な場合だってあるんだよ」





これは、今日の(小学生の)授業中の様子を再現したもの。
「・・・」は子供の反応。適当に想像してみてください。

人間(もちろん自分も含めて)ってこんなもん。
それでも人間としてしか生きていけない。
だからまずは自分がどんなものかを見つめよう(と努力しよう)。
そして、少しは世間を知ろう(と努力しよう)。
そして、少しは自分以外のことも想像しよう(と努力しよう)。
だって、無知でいることは『罪』な場合だってあるんだよ。


自分たちの考える「子供たちに対して誠実に接する」って、こんな感じも含まれます。

だから、今の時代に今一受けないのかな?(笑)

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懐かしい顔

人々に対して同じようなことをさせる電波がどこからか放出される。そんな日があるとするのであれば、それは今日だったはず。

 

今日だけで、4組-計8人の卒業生が次々に遊びに来た。

そして(昔からだいたいこういった巡り合わせだが)そんな日に限ってゆっくり話す時間がないほど自分は忙しい。

 

そんな今日のほとんどの卒業生に言われた言葉、

 

「先生、痩せたー!」

そうでしょ。だって頑張ってるから。

 

「坊主じゃない方がいい。昔の髪形の方がいい」

はい、わかりました。以後気をつけます。

 

でも、ゆっくり話したかったな。

できれば、事前に連絡くれれば助かるな。いや、やっぱり「思い立ったが吉日」でもOKか。

そうだな、ありがたいことだ。

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過去と今と未来について

『過去は変えられない』

って、言われるけれど、本当かな?

確かに「実際に起こった出来事」は変えようがないけれど、こんな経験はないかな?

「あの時は○○○って思ったけれど、今なら△△△って思える」

「本当に辛くて悲しいと思っていたけれど、今ではいい思い出だよ」

これって、過去に対する認識が変わるってことでしょ。

「認識が変わる」

これで充分じゃないかな? だって今の自分にとって重要なのは、多くの人にとって重要なのは「過去の事実」ではなくて「その認識」だと思うから。

だから → 『過去は今でも変えられる』

 

『未来は変えられる』

って、言われるけれど、本当かな?

未来に起こる(かもしれない)ことを、今変えることって不可能じゃない?

何が起こるかもわからないのに、それを変えることはやっぱり無理だよ。

だから → 『未来は変えられない』

 

『今、できることは何?』

結局、ここに行き着く。

僕はこう思う。

それは「選択」だと。今できることは、ただの「選択」のみだと。

常に存在する「今、何をすべきか?」の選択。

これによって人間は動いている。

これによって人間はつくられていく。

様々な可能性の中から取れる行動はただ一つ。

その選択で未来が決まっていく。(あえて言うと、未来は変えられるのではなく「変わる」)

今選んだ選択、それのみで人生が形作られていく。

だから → 『精一杯、今の「選択」をしよう(したい)』

 

過去に思いを馳せ、

未来に夢を描き、

今を選択する。

  

過去を自信とバネにし、

未来に憧れを抱き、

今を精一杯生きろ!

 

話したかったことは、こういうこと。

うまくは伝えられなかったけれど、精一杯話した。

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挑戦者たち

「何回失敗したらイヤになる?」

「何回挫折したらあきらめる?」

 

これは、会社の研修でよく質問されること。

自分は(だれでも?)、失敗は嫌いだ。挫折はもっと嫌いだ。

 

「挫折するにも能力がいる」

打ち込む”力”がないと挫折もできない。

 

今、身近にいる(身近じゃなくてもかまわないが)挑戦者たち、そして自分、

本当に挑戦者になれているか?チャレンジャーなのか?

得るために行動できているか?失わないために動いていないか?

 

失敗は嫌だよ、挫折はもっとイヤだよ。

でもね、オレたちは挑戦者なんだよ。だから失敗するんだよ。

かっこ悪く、ブザマに、失敗するのが普通なんだよ。

 

もう一回繰り返すよ。

失敗は嫌だよ、挫折はもっとイヤだよ。

でも、嫌だからといって、絶対にやめないよ。

挑戦は、チャレンジは、絶対にやめない。

その程度の根性はある。

君にも、僕にも。

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人々の記憶の中に

昨年末、当時(17年前)小学生だった教え子(現28歳)二人と飲んだ。

二人とも、当時の雰囲気のままで、懐かしくもあり嬉しくもあった。

「先生、全然変わってない!」と言われ、

「おいおい、そんなことはないだろ」と思いつつも、ちょっと(いや、ホントはたくさんか?)嬉しかった。

昔話に花が咲く中、二人のそれから、現状、自分の今などいろいろ話した。

あっという間に時間が過ぎていった。

実に楽しいひと時だった。

 

そこで強く感じたこと・・・

『自分は他人の記憶の中に(多かれ少なかれ)それなりの場所を占めている。それは、実に責任の重いことである。』

 

今現在仕事において、自分は良い知識を与えることと同様、サービス業として良いイメージを与えることも意識していないわけではない。ってことは、少なからず(仕事において)自分に接した人々の中には、自分は(自分自身で考えている)実像とは違った(それも本物よりも良い)像として映っているに違いない。最近は、努めて「自分はこんな人間だ」ってことを訴えかけてはいるが、それとて自分で作った自分の像に過ぎないわけで、はなはだ怪しい存在と言わざるをえない。

またホントたまたま今日、職場のスタッフに、

「先日、新しくできた近所の美容院に行って、そこで美容師の人と仕事の話になり、○○先生(←私のこと)に教わってたって言われたんですよ」 と言われた。

その偶然にびっくりすると同時に、

「お前は、人の噂に上るような、それほどの人間か?」って思いが強く残った。

 

だから・・・

「自分をアピールするのも仕事の一環、でもそこに中身が伴っていなければ単なる詐欺だよ。 精進せい、自分。 人々の記憶の中の姿を壊さないように」

「はい、わかりました。できる限りのことは頑張ります」

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目的と手段

手段ではなく目的は?

と言われれば、かなり困る。

だいたい普段、「目的」と思って行動していることは、○○のためにやっている「手段」に過ぎないから。

合格は目的か?確かに合格を目標・目的に勉強をすることはよくあるけど、合格は何のため?と聞かれれば、「大学に行くため」とか「良い人生のため」とか「見栄(本音ではよくある話)」とか「ブランド(これもよくある話)」とか、自己実現のため、アイデンティティーの確立のため・・・もう様々出てくるはず。

つまり、合格は上記の目的のための「手段」にも(かなりの確率で)なっているのが現実。

ってことは、学問・勉強・学習(ってなんと呼んでもいいけど)なんかは、もうモウレツに手段でしょ。何がしかの結果を得るための。

だって学問を目的にしている人ってどんな人だ?何かのためではなく、ただ学問が楽しいからしている、寝食を忘れてただひたすら、学問に没頭しているような人。うーん、ちょっとだけ、たまにはなってみたいぞ。そんな人。

じゃあ、目的って何なんだ?といった疑問に、蛇足ながら今の自分なりの理解を書いておくと、「それは何のため・またそれは何のため・・・・・と自分を分析していったときに、それ以上遡れない自分の本質的な欲求」のことではないかと。

もちろん、日常の小さな”目的”を否定するものでもなく、自分の中にある”本質的な欲求”に目を向け、その存在を認識しておいたほうが良いかな?ぐらいのモンです。

ただ、ここで考えすぎて、「自分には目的がなく手段だけだ」などと悲観的になる必要もなく、目の前にある”手段”を徹底的に追求していけば、それ自身が目的に成ることもあるわけで、それはそれでステキなことではないかと。

自分にとってのランニングなんてまさにそれで、ダイエットや運動会対策や単なる意地だったものが、いまは走りたいから走るというその行為自身が目的化しています。

http://jidaiokure-blog.cocolog-nifty.com/blog/2007/11/post_c8e7.html を参照してください。

「目の前の”心惹かれるもの”、”何かのための手段”・・・なんでもいいよ、つっこんで必死にやってみようよ。必ず何かが開けてくるはず。少なくとも、心が落ち着くよ。合否に悩むより、目の前の単語一個!」

本日の写真は、LeicaM3+ELMARIT135mmF2.8(眼鏡付)

Kouyou4

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隠せよ!「思惑」

隠そうよ、あなたのその思惑を。

それが見え隠れすることによって、あなたの最も大切な人が「真の自由」を奪われているってことに気付こうよ。

って、叫びたくなる瞬間が、ここ最近多くなっています。というのも、教育を仕事にしている私にとって、この時期は彼らの「進路」というものを決めていかなければならない時期だからです。

確かに、保護者としての夢や希望があることは全然構わないし、親の”主観的な意見”や”客観的な情報”を両面で伝えることは、むしろ必要なことだと思います。特に若年者は、一つのこだわりに左右され、全体像を見るのが苦手な場合が多いから、大人の視点で物事を見てあげることは必要なんだけど・・・。

子供っぽい大人が増えている。自分の立場でしか考えられない大人が。

「あなたの好きなようにすればいいのよ」と言いながら、それに付帯条件をいっぱい付ける人のなんと多いことか。

「好きなようにしていいのよ(一定レベル以上の学校ならば)」

「好きなようにしていいのよ(私の気に入る範囲で)」

「好きなようにしていいのよ(でも、あなた分かっているんでしょうね・・・)」

繰り返しますが、私は保護者の方に「黙っていなさい」という気は全く無いです。保護者なんだから、親なんだから、干渉したっていいし押し付けたっていい、それに様々な家庭毎の事情もあるでしょう。だったらそれを「ハッキリ言ってあげようよ」といいたいだけなんです。そして、反論の機会や、想いを伝える場を作ってあげようよ。親の本音に、子供たちが耳を貸さないわけがないでしょう。彼らの将来がかかっている大事なことなんだから、本音で話そうよ。ぶつかろうよ。そして、子供たちも全力で探そうよ。見つけようよ。説得しようよ。お互いに力を尽くそうよ。

「ものわかりの良い振りをしたって、子供たちはその裏に隠されている(実際、隠しているのか?気付いてもらうように仕向けているんじゃないか?)『思惑』に気付かないわけないじゃん。そして、ぶつかることも、反論することも、自己主張することも、想いを伝えることもできなくなっているんだよ。あなたは本当にそうしたいのか?」

と、ひとしきり吼えた後、お口直しに爽やかな(季節外れですが)写真を一枚。昨日同様、逆光に透け輝く花一輪・・・。

CanonNewF1+NewFD80-200F4L(←名玉です。大好きです。この組み合わせ最高です。あと、NewFD24-35F3.5L & NewFD50F1.4を持てば言うことなし。いずれ詳しく書きたいです。)

Himawari

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