日記・コラム・つぶやき

明日は受験日

明日は子供たちにとっての受験日です。

毎年この日を迎えながら、やはり毎年「やり残した事がまだまだある」と感じてしまうのは、自分が全く成長できていないからでしょうか。

 

子供たちに関して望むことは一つだけです。

「全力で立ち向かってください。作り上げた答案が、そしてその結果が今の自分自身の”力”そのものなんだから。」

 

成功するのも自分、失敗するのも自分、何かを掴み取るのも自分、腐るのも自分。

 

でも、「意味のない努力なんてない!」ってことは、ここまで生きてきて、自分自身が確信を持って言えることです。

一先ずは、明日、悔いのない一日を過ごせることを願います。

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ビールって美味しいですね

先月末にかかったインフルエンザにより、その後2週間ぐらいビールを飲んでいませんでした。(全く飲みたくありませんでした)

数日前から、晩御飯(といっても仕事の関係で自分の晩御飯は夜11時過ぎです←これじゃー普通に生活しているだけで太るはずです)の時に、「ビール飲もうかなー」という気になりました。

そこで、近所の24時間営業の西友に行って、エビス、キリン・プレミアム無濾過、キリン・ザ・ゴールドを各2本ずつ買ってきました。今の自分のお気に入です。

 

いやー、久しぶりのビールはただひたすらに美味しかったです。

 

ところで、ビールの美味いマズイは体調に大きく左右されますね、当たり前だけど。

体調が良くて、美味しく食事やビールがいただけるのは、かなり幸せなことだと(あらためて)感じました。

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元柔道部ですから その3

自分が中学校で柔道部に在籍していた当時、日本を代表する柔道家と言えば、

『世界の山下』こと、山下 泰裕(やました やすひろ)選手でした。

◎9年間無敗!「203連勝」

◎全日本選手権9連覇

◎世界選手権95Kg超級3連覇

◎対外国人選手「無敗」

と、とにかく強かった。だって9年間負け無しですよ!さらに外国の選手には、公式戦で生涯一回も負けなかったんですよ!

まさに「史上最強の柔道家」だと思います。

 

その山下選手(もう選手じゃないけれど、自分はどうしても山下選手って言っちゃうなー)を久しぶりにテレビで見ました。

彼が言っていました。

「過去の栄光の中で生きていくなんてクソ喰らえですよ!」

「それを今にどう活かしていけるかが全てでしょう。」

 

山下選手、その通りです。

現役時代に「次に何をするか?」だけを追い求めていた彼の口から出る言葉だからこそ、史上最強の実績を(過去を)持っている人間の口から出る言葉だからこそ、重みがあります。

 

同時代に見ることができて、感じることができて本当に良かったなーと思える人でした。

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アスリートとアルピニスト

今日気付いたこと。

自分が強烈に『なりたい!』と思ったもの(思っているもの)は、(偶然だけど)「ア」で始まって「ト」で終わってます。

 

スリー

言わずと知れた「競技者」のこと。レースに出るようになれば自然とアスリートの仲間入りなのかもしれないけれど、自分的にはもうちょっとハードルを上げて「かなり真剣に打ち込んでいて、相応の結果を残す者」の意で捉えています。その人がアスリートかどうかは、自己申告ではなく周りが決めることのような気がしています。

 

ルピニス

「登山家」のこと。ただし、単なる山登りが好きな人ではなく「アルプスに登るような高度な技術を持った登山家」として使われていると思います。自分的には、

・ロッククライミングができること

・バリエーションルートを登れること

・冬期登攀ができること

は、必須だと考えています。ということは、自分はたんなる「山登りが好きな人」です。

そんな自分ですが、アルピニストへの憧れから(たぶん10年以上前に)下の写真の腕時計を購入しました。

01

SEIKO Alpinist (セイコー アルピニスト 4S15)

たぶん1995年製で4S15というムーブメントを使った機械式時計です。購入価格は2万円代だったと思うのですが、この時計、使っているムーブメントが高級だとか何とかで最近プレミアがついているらしく(最近知りました)、4万から8万ぐらいで取引されているようです。ただ、自分の時計は実際に山登りや海などのアウトドアーにガンガン使っていた猛者?なので傷だらけで、そんな価値はないでしょう。

 

 

アスリートもアルピニストも、自分が持っているイメージは「ストイックな追求者」。

(ほんの僅かでもいいから)そのような人間でありたいというのが自分の願いです。

とかいいながら、「ちょっとぐらいはイケてんじゃない?」と思う(思いたい?)のは、ストイックな姿勢じゃないなー(笑)

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引き受ける

<今日の「研修」で得た(感じた?)こと>

 

自分自身への欠乏感を、

自分自身の能力を、

渇きを、

そして、過去の自分の様々な過ちを、

 

「隠蔽」するのではなく、

(大きな痛みと共に)

「引き受け」る。

 

全てはそこから始まる。

 

 

できるのか?

でもまあ、「やろうと思うこと」から始めるしかないな。

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激安VAAM ゲットだぜ!

娘がはまっているポケモン風のタイトルにしてみました・・・

 

日曜日に、様々な日用品を買いにコストコに行ったところ、

『バーム(20袋入) 2800円』てのがあって、「なーんだ、全然大したことないじゃん」と思ったんだけれど、よくよく見たら、

『バーム(20袋入)×2箱 2800円』だった。

と言う事は、1箱1400円! メチャ安! さらにその値段は本日最終日

3パック(6箱=120袋)買いました。

 

バームを飲むようになってから走行距離も伸びてきて、ここ半年大きな変化が無かった体重もまた減り始めています。

自分にとっては「効果がある」と感じています。

ランニングの疲れが残らなくなったとも思います。

 

激安VAAMでも効果は同じはず(笑)  1月のハーフマラソン、そして3月のフルマラソン(←抽選に当たればですが)目指して、より一層走り込んでいきます!

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松茸

実家から松茸が送られてきました。

親父の田舎が和歌山で、松茸の生える山を持っているからです。

(山を持っているといっても、辺鄙な場所で金銭的価値はほとんどありません)

 

そんなこんなで、子供の時から松茸には不自由していませんでした。(ちなみに、無くても誰も不自由しないが・・・)

どうやって食べていたかというと・・・

大きめのやつを裂いて、醤油を少し垂らしての「焼き松茸」

なにげに、一番好きな「松茸ご飯」

もっとも香りが漂う「お吸い物」

最高の贅沢、大き目のを分厚く切って、肉と一緒にドバドバ入れちゃう「松茸すき焼き」

(↑これって、純国産松茸の大きいのを何本も使うんだけれど、今考えると、買ったらものすごい値段になった気がします。当時はそんなこと考えもしなかった。恐ろしい・・・)

 

今年我が家に送られてきたのは、可愛らしいのが数本。

お世話になっている人(で、特に価値の分かってもらえる人)にお裾分けをして、残りはさっそく自分の好きな「松茸ご飯」にしてもらい食べました。

美味いとか以上に(もちろん美味しかったけれど)、あの独特な香り。「秋だなー」と感じた一時でした。

 

今までの暮らしの中で、自分にとって季節を感じさせてくれるものってあるんだなーと思いました。

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励ます

人を励ましていると、

ふと気付くと自分が励まされている。

 

そんな対話を通して、

胸の内の『夢と希望』にうっすらと積もっていた、

微細な埃が、

うっすらとかかっていた曇りが、

拭い去られていった気がする。

 

そして、

ほんの僅かかもしれないけれど、

「光」を取り戻した気がする。

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入院

実家の父親が入院しました。

昨年は母親がガンの手術をしました。(それは幸いにもかなり早期だったので、今現在は普通の日常生活を送っています。)

 

最初お腹が痛くなって、近所の病院では「盲腸」と言われて、大きな総合病院にまわって、検査の結果は盲腸じゃなくて腹膜炎。

確かに盲腸もちょっと腫れているらしいけれど、それが直接の原因じゃないそうで、とにかく今は絶食して抗生物質で炎症を抑えているらしいです。

今後、炎症が治まったら胃や腸の内視鏡もするそうです。

「何も見つからなければいいなー」と思っていますが、今日の電話で母親が言っていたことがホントその通りで、「まあ、何もすることは無いから。いろいろ心配してもしょうがないし」ってところです。

ですから、自分はこちらでなるべく普段どおりの生活を送ります。

それしかできないし、それが大事だとも思うから。

 

余談ですが、今日の夜、日課のランニングに行きました。

食事前で、30分ぐらいで戻らなければいけなかったから時間がなかったのと、もう全然暑くなくて寒いぐらいだったのと、ただ単にペースアップしてみたかったのと、上記の件もあって自分を追い込んでみたかったのとかがあって、自分的にかなりペースアップして走りました。

普段のランニングよりも時速で+2Kmぐらいでした。(普段9Km、今日11Km)

なかなかキツかったけれど、キツイぐらい何かに打ち込むということは悪くないなと思いました。

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キレだな、キレ

その日(といっても昨日ですが)、僕は娘の友人たちの(というか妻の友人の娘達の)ダンスの発表会に行ってきました(というよりも連れていかれました)。下は4歳から上は(たぶん)50過ぎの方までの様々なダンスを見ていました。

 

様々な習い事の発表会が(たぶん)そうであるように、そこには所謂”内輪”の”好意的な観客”だけがいるわけで、”外部”の”斜めから見るような一般人”は皆無なわけです。

そして自分個人としては、そのような雰囲気はあまり好きではありません。

といっても、そのような発表会自体に異を唱えるつもりもないし、それらが間違っているとも思いません。ただ、あまり好きではないだけです。

それはたぶん、自分がそんなに内輪の人間ではないからが一番の理由で、その次に自分自身が自分といった人間を一番のウリとするような職業に就いている性質上、「プロの」とまでもは言わないまでも、せめて「内輪ではない一般人の」観賞に耐えうるものを発表した方がいいんじゃないか?との”非常に狭く偏った”考えを持っているからでしょう。

(そうはいっても、じゃあ、自分の娘の習い事の発表会があった場合、どのような感情で過ごすのか?については、今の自分には想像がつきません。なんせ親バカですから)

 

とまあ、そのような発表会を見ながら、

「んっ、あの人の動きは他の人とは明らかに違うな。いったいどこが違うんだ?」

といった、またしても職業的他者観察を始めてしまっていました。

 

そういった観点で見ていると、非常におもしろいしタメになる。

明らかに「上手いはずなのに埋もれてしまう人」と「自然と目がいってしまう人」が存在します。その理由の研究は、絶対に自分の仕事に有益なはずです。

 

もちろん詳しくは分からなかったのですが、何となく分かった(感じた)ことは、「動きにキレがあるか?」といったことです。

一瞬のスピードの変化、動きの大きさ(とその変化)、リズムに合わせるというよりもリズムを自分自身が具現化するような動き・・・などなど、うまく言えないけれど、

キレのある動作=キレのある人

が存在していました。

 

目を引く人の動きには、上手く伝えられないんですが、安定感に立脚した不安定感(=緊張感)といったものを感じました。

 

ダンスを見ながら、自分もキレのある(=目を引く、緊張感のある)授業を、話し方を、接し方を、所作を、したいと思っていました。

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元柔道部ですから その2

北京オリンピックの熱気も冷めやらぬ(冷めてきた?)昨今ですが、忘れないうちに書いておきたいことが一つあります。

もちろん、いろいろと感動したことはあるのですが、その中でも特に「これはスゴイ!」と感じたものがあります。それは、

『女子柔道最重量級の決勝戦』

中国選手に勝つ(=金メダルを取る)ことだけを目標に練習してきた塚田選手の「作戦」「準備」「気迫」「その他もろもろ」が全て最高の形で出ていたと思いました。

とにかく見事な試合でした。試合中に鳥肌が立ちました。引き込まれました。圧倒されました。

結果は、皆さん覚えているとおり「銀メダル」。試合時間残り10秒ほどでの逆転の一本負けでした。

でも・・・・・

あの逆転の背負い投げは、あれはあれで最高のタイミングで最高の技でした。だから、この一本勝ちは本当に素晴らしい逆転勝ちです。

でも・・・・・

逆転されることを恐れず、消極的にならずに最後の最後まで自分の信じてきた道を(=この相手に勝ちきる道を)貫き通した塚田選手、最高の逆転負けだったと思います。

こんなに爽快な負けっぷりを見たのは、昔々の柔道全日本選手権「小川VS古賀」の決勝戦以来かな~。

 

試合直後のインタビューでは(当然のように)悔しさで言葉にならなかった塚田選手が、その後の表彰式では「最高の笑顔」を見せてくれたのも、本当に嬉しかったです。

 

勝ち負けを凌駕した、素晴らしいものがあるってことを見せてもらいました。

自分も現役時代、あの気迫で柔道に打ち込めてていられれば・・・と、考えてもしょうがないことを、少しだけ考えてしまったと同時に、自分も、「勝ち負けではない全力投球」を普段から意識しなければ、と強く思いました。

やはり、本気で打ち込んでいる人は最高にカッコいいです。

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元柔道部ですから

中学時代は、柔道部でした。(高校はバレーボール部)

団体戦で市大会優勝して、全国大会を目指していたけれど行けませんでした。同じ地区内に自分達の代の時に全国優勝した中学があって、そこにはどうしても勝てませんでした。(勝ってたら自分達が全国優勝?)

でも、その中学に勝つことを目標に練習してたから、それはそれはハードで・・・。顧問もメチャメチャ怖かった(けどいい人だった)。

以前、別の記事に書いたけれど(以下参照)

http://jidaiokure-blog.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_019f.html

中学、高校とハンパ無い顧問の先生に恵まれ?自分だけでは到底出来ない「努力」をさせてもらった(と、今では言える。当時は「させられていた」)。

自分の基盤が作られていた時期、柔道が教えてくれたことは少なくはないと思っています。今でも柔道・・・見ることしかしなくなったけれど・・・結構好きです。

 

オリンピックでも、まず気になるのは柔道。

谷(旧姓田村)選手、凄いなー。

天才少女として現れた時もすごいと思ったけれど、オリンピック5大会連続メダルなんて、これからも日本には出ないと思います。50年後も語り継がれている選手でしょう、間違いなく。不世出の天才。ロンドンでも見たい。

内柴選手、谷本選手、ともに連覇なのが凄いなー。

4年間苦労に苦労を重ねてきて、それに耐え、力に換え、(たぶん)支えてくれる人に恵まれ、そしてなによりも「オリンピックに愛される幸運」を持っていたと思います。

それと、二人に共通していたのは「組む時の姿勢」が素晴らしかったこと。スタミナが素晴らしかったこと。笑顔が素晴らしかったこと。

 

また柔道やりたくなってきた。どっか道場探すかな。

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自分だけに特別なもの

他者にとっては何でもないものでも、自分にとっての特別なもの(場所、物、曲、景色など)って存在する。

例えば「モンシロチョウ」

先日の経験以来(以下のブログ参照)、

http://jidaiokure-blog.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_44a9.html

自分の周りに飛んでくるモンシロチョウは、すべて「もしかして・・・」と思ってしまう。

そして、そう思ってもいいと思っている。

 

今年も夏が来る。

夕焼け、星空、あの曲・・・・・

 

様々な思い出を、胸に詰め込んでいるのは、案外悪くない。

生きているってことは、案外悪くない。

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この1年の間に・・・2

先日の日記(「この1年の間に・・・1」)に書いたことを、少々詳しく話したいと思います。

 

この前の日曜日、娘の幼稚園で「父の日、小運動会」が行われました。

昨年のこの時期、その運動会を機会に始めたランニングは、体重6Kgと体脂肪6%、さらにはベルトの穴5つ分を削ってくれました。

しかし、それ以上に削ってくれたものは、自分自身にすっかり・しっかり・ベットリとまとわりついていた、「怠惰な日常」という名の贅肉であったと思います。

そして、その逆に「先ずは、いろいろチャレンジしてみる精神」を与えてくれたように感じます。

 

ブログを始めました。やらない理由より、やる理由を探そうかと。

大学の授業を受けました。今、人生で最も学びたい気持ちが強い気がします。

車を換えました。より、生き方にこだわった車に。

一人でバーに行きました。未知の扉を開けるために。

熱帯魚を始めました。生き物の世話が癒しになります。

村上春樹を読んでいます。自分を見つめるために。多少は遅すぎた感も否めませんが。

職場での合宿を敢行しました。自分の生きたい世界を確認したかったのかもしれません。

一歩進んだ授業を開拓しました。勉強の真の面白さがそこにあると思ったから。

頭を丸めてみました。たしかに、失敗したのではありますが。

 

そして・・・多少の痛みも感じました。でもそれが、自分を前に進めてくれるとも思います。

 

一年一年、成長を、進化を、そして生きているという実感を得られるようにしたいと思います。

それが、いつのまにか人生の折り返し点を過ぎてしまった自分の最低限の務めだと思うからです。

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この1年の間に・・・1

昨年の今頃、娘の運動会を理由にランニングを始めた。

(といっても、過去にランニングを習慣にしていたことは何度かあった)

それからほぼ一年。

 

それをきっかけとして、様々なことに「一歩」を踏み出せた一年になった。

肉体的に、精神的に、少なからず動きを感じられた一年になった。

多くの喜びと小さな痛みを感じた一年になった。

 

そしてこれだけはハッキリ言えると思う・・・

『この1年間、僕はたしかに生きていた』

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便利さの中に・・・4

前回に続き、上高地に関して・・・

 

(たしか)新田次郎さんの『孤高の人』か井上靖さんの『氷壁』のどっちかだったと思うんだけれど、冬の上高地に入るシーンの中に(いまちょっとその本が見つからないから引用はできないけれど)、今で言う158号線沿いを山スキーを履いて進んでいくところがあった。

もちろん、その光景は見たことがないんだけれど(自分は、釜トンネルの手前まで車で行ける時代しか知らない)、モノトーンの深々と雪の降る光景がありありと目に浮かんできて(もしかすると、雪国育ちである自分の子どもの頃の記憶とクロスオーバーしたのかもしれない)、非常に不思議な気がしたことを覚えている。

そんなことも忘れていた数年後に、「安房トンネル」が難工事の末に開通し、安房峠のクネクネ道の冬の不通の不便さや夏場の渋滞や霧の夜の怖かったことなんかは、全部遠い昔になってしまった。

それ以来、トンネル以外は使っていない。あの便利さには抗えない。

自分の中にあった帰省時の風物詩は、永遠の封印をされてしまった。

あのめんどくささやちょっとした高揚感や、その他いろんな感情なんかは、トンネルを抜ける空気のように、二度と手の届かないところに消えてしまった。

 

車が通っていなかった時代、自分の足でずっと歩いていかなければならなかった雪深い上高地の、

モノトーンに沈んだ静寂の中の、

外界とは隔絶された世界だけが持つ、あの疎外感と神々しさを併せ持った姿は、

永遠に失われてしまった。

 

そして、僕はきっと二度とあの峠道を越えることはないだろう。

 

 

 

便利さの行く末にあるものは、

見事に均一化され、飼い慣らされてしまった当たり前の日常になるような気がしてならない。

胸が、心がひりひりするような、あの焦燥感は・・・もう、そこには跡形もなくなっている。

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便利さの中に・・・3

上高地が好きです。

その上の、涸沢はもっと好きです。

河童橋辺りから歩き始め、明神、徳沢(ここでテント泊も気持ちいい)、横尾と、谷が深まっていくにつれ、気分が高まってくるような、身が引き締まるような、でもリラックスしていくような、(何かに)還っていくような、不思議な気持ちになっていきます。

四季折々(といっても、4月から10月までの間で、厳冬季は未経験です)、何度訪れても、この上ない喜びがあります。

 

何度上高地に入っただろう、何回涸沢に幕営しただろう。

穂高にはやはり、日本アルプスのスタンダードとしての良さが、素晴らしさがあると思います。

 

でも、僕には「永遠に経験できないものがある」ってことも感じています。

それは、

釜トンネルができる以前、徳本峠(とくごうとうげ)越えでしか来れなかったころの上高地・・・。

 

確かに今でも徳本峠を越えて来ることもできるし、釜トンネル経由で来たとしても見える景色は同じものと言えるかもしれない。

でも、そうはいっても「それしかなかった頃のそれ」は、やはり経験できないのです。人の感情はそんなに割り切れるものではない。だって一つのおにぎりが、時と場合によってどんなご馳走よりも美味しいときがある。(下記ブログ参照)

http://jidaiokure-blog.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_0d03.html

例えば、ある山にロープウェイが架かると、それが無かった頃に見られた景色は、2度と見られなくなる。もう戻ってはこない。少なくとも自分はそう思います。

 

徳本峠越えでしか入れなかった頃、一日がかりで上高地に入った人の目には、穂高の山々は、川は、草木は、そして夜空の星は、どのように映っていたんだろう。

 

僕が考えるのは、そのようなことです。

 

 

 

<つづく(予定)>

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便利さの中に・・・2

<前回の続き> 

今日もその公園を走った。今日は暑かったけれど、森のそばの舗装されていない道は涼しかった。

去年から気付いていたんだけれど、土の上は、それも木がたくさん生えているそばの土の上は本当に涼しい。

 

だから、やっぱり今日も思った、

『これ以上舗装すべきではない』

 

アスファルトの道路と、森のそばの小道と、走り(歩き)比べてみればすぐ分かるはず。

どっちが『人の住むべき世界』なんだ?

どっちが『生命に満ち溢れた世界』なんだ?

便利さって、人間らしさを失ってまで必要なものなのか?

 

 

<つづく(予定)>

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便利さの中に・・・1

先日、近所の公園を走っていて、ふと気付いたことがあった。

あっ、この道全部舗装されたんだ・・・。

 

「公園利用者のためのバリアフリー化工事を進めています」

バリアフリー・・・

確かに、まだ娘のベビーカーを押していた頃、ちょっとした段差や階段など、いわゆるバリアフリー化されていない所に出会うたびに、「まったくもう・・・」と思っていたことも事実。

(そういえばあの頃って、ちょっとした人の優しさや思いやり、はたまたその反対のことに非常に敏感だった。でも総じて「世間の人たちはみんな優しいな」と思うことが多かった)

 

車椅子の人やベビーカーの人たちや、その他様々な人たちに住みやすい駅を、街を、公園をというのは良いことである。それは間違いない。

その公園でも、未舗装だった時にベビーカーを押して桜を見に行ったことがある。アップダウンにタイヤをとられて進みにくかった記憶もある。でも、「舗装して欲しいな」と思った記憶はない。だって、そこは自然公園内の道だから。

だれもが利用しなければならない施設におけるバリアフリー化はむしろ急務であり、。(煙草を吸わない自分としては)公共の場における完全分煙(吸いたい人は吸えばよい。だから禁煙とは言わない)と同様にまだまだ遅れている。

 

僕はナチュラリストでもなければ現代社会の批判家でもないので、「自然にはもう手を入れてはいけない」とか言うつもりはないけれど、今回のバリアフリー化における舗装工事に、少なからずショックを受けたことは事実。

好意を持っていたものが損なわれた時、そこに残るのは悲しみ?嘆き?諦め?

何が(誰にとって)必要なことで、何は(誰にとって)不要なことなのか? そんなこと僕には分からないから、自分は自分の基準で考える(感じる?)しかない。

 

『あの道は、舗装すべきではなかった』

僕はそう思っている。

 

<つづく(予定)>

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「僕は僕のためにどう生きるか?」

今日、娘の大好きな芸人(大道芸=パフォーマー)を、近所のアウトレットモールに見に行きました。

毎日DVDも見て、実物も見に行って、まるで「追っかけ」です(娘は4歳ですが)。でも、ウキウキして喜んでいる娘を見るのは、自分にとっても嬉しいことなので良いのですが(笑)

 

ところで、今日、そのアウトレットモールでは2組のパフォーマーが出演していて、一人は娘の贔屓のデビッドさん。もう一組は「アルケミスト」というミュージシャン。

デビッドをみるために待っていた時、そのアルケミストのライブを聴いていたんだけれど・・・ちょっとびっくりしました。

失礼ながらアルケミストのことは、今日初めて知った(=初めて聴いた)んだけれど、何と言うか、かなり激しく心が揺さぶられました。

音楽とは「味わうもの」であり「分析するもの」ではないことをわかった上で、その”揺さぶられた”原因を考えてみると、

まず一つ目は、ボーカルの声が素直にステキだった。昔のバービーボーイズのコンタの声をもう少し透き通らせた感じで、(プロだから当たり前だけれども)音程が全く不安定にならない。聴いていて、実に心地良かった。

二つ目は、曲が(メロディー)がステキだった。ボーカルの声質に合っていた。ピアノも良かった。(自分は結構歌詞重視な方で、歌詞はなんと言うか、普通だった。でも、その普通さがすごくぴったりする曲もあったと思う)

三つ目は、最近の自分の心的状態がある。前回や前々回のブログにも書いたように、当たり前の状態がいつまでも続くわけではないことや、いつかは必ず全てのものにサヨナラしなければならないことや、その他様々なことに(悩んでいるというより)想いが廻ってしょうがない。そんな自分の今の心に素直に沁みてきた。

普段は大きな音が苦手で、路上ライブなんかは絶対に聴こうとしない娘もちゃんと聴いていました。そして、途中でフと気が付きました。

「ボーカルの人、片腕が肘までしかない」

決して、だから感動したわけではなくて、かなり後で気が付きました。それほど自然だった。

 

そのライブ会場でもらってきたパンフレットの紹介文にあった、ボーカル(こんやしょうたろう)さんの文章、

『高校のとき、僕は夢を諦めました。

僕には左手のひじから先がないし、才能もないし

・・・(中略)・・・

そう思ったら、ちょっとくやしかったけど、

スーと胸のつかえが取れたようにラクになれました。

歌いたいなら歌えばいい!本当に、とても簡単なことでした。

・・・(中略)・・・

僕が生きているということが、僕にとっては何よりすばらしい。

それ以上の何があるのでしょうか。

・・・(中略)・・・

僕は僕のためにどう生きるか、考えるのはその事ばかりです。

 

 

「僕は僕のためにどう生きるか?」

 

今日も、外に出て良かった。

娘の笑顔、触発される様々な出会い・・・・・

当たり前の幸せ、それが永遠でないとしても、いや、違うな、それが永遠でないからこそだ、

今が素晴らしい、今が輝いている・・・・・

今を生きている。

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背負いきれない重荷を

今日の午前中、娘と一緒に「ダンゴムシ」を探した。すごく楽しかった。いろんな虫や植物なんかの『生命』に興味を持っている娘に対して、理屈抜きで嬉しかった。花の名前を教えたり、意外なものの名前を知っていて驚いたり。とにかく楽しかった。

最近よく感じている「この当たり前は、いつまでも永遠に続くわけではない」ってことも、同時に考えていた。だからこの瞬間の当たり前を精一杯過ごす。

 
 

ところで、、今春学校を卒業して、看護師として病院内の子供たちと接している自分の教え子がいるんだけれど、そんな彼女からのメッセージを見て考えたこと、感じたことを書かせてもらいます。

自分はこんなことを偉そうに言える人間ではないけれど、でも自分はこう思っています。

『人が背負いきれない「重荷」は、代わりに誰かが背負ってあげなくちゃいけない』

君の仕事はそんな仕事なんじゃないかと思っています。

「当たり前のことを当たり前にすることができない」子供たちの重荷を、君たちが代わって背負ってあげているんだと思います。自分には何ができているのか?も、もちろん大事なことなんだろうけれど、病院内の子供たちにとって(いや、自分たちも含め全ての人にとって)大切なのは、自分のことを心から心配してくれる人の存在ではないかと感じています。

そんな存在がそばにいてくれることが、不安に苛まれている人にとってどんなに心強くありがたいか。

心から心配する=その人の重荷を分かち合うことは、この世にとって不可欠なことのように感じます。 でも、人を心から心配することができる人の肩には、代わって背負ったその重荷が積み重なっていってしまう。

でもね、君たちの肩にあるその「重荷」は、君たちの周りの人が少しずつ手分けして背負っていけばいいんだよ。自分だってそうだし、周りの人たちだってそうかもしれないけれど、まだまだ肩には余裕がある。

肩に積もった重荷は、愚痴といった形でもいいし泣き言といった形でもいい、少しずつ降ろしていけばいい。そしてみんなが少しずつ背負えばいい。

そう思っています。

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安全性の先にあるもの

危険が無いに越したことは無い。→『正論』

安全性の高い方が良い→『正論』

でも、それを最大限に最優先した場合、「つまらなく」なること(物)は多々ある。

どの辺でバランスをとるのかが大事なのかな?

 

以前のブログで(下記ブログ参照)、

http://jidaiokure-blog.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/recycle_greates.html

仕事における「どの角度から見ても全く問題が起きないこととは?」ってことについてちょっと書いたのだけれども、その後様々なことについて「なるべく問題が起きない=安全性が高い=つまらないんじゃないか?」ということについて考えさせられた。

例えば、自分の好きなカメラのレンズでも、昔はかなり多種多様なガラスが使えたんだけれど(中には放射能!を含むガラスもあったことはライカ通の中では有名)、安全とエコがテーマになってからは、一気に使えるもの(個性あるもの)が減ったのは周知の事実。

また車でも、自分は小さくて小粋な車も非常に好きなんだけれど、過去の名車が現代に復刻されても、大方は(安全対策上)大型化している。

ミニしかり、最近出たフィアット500しかり。(特にフィアット500は・・・期待していただけに・・・)

オースチンミニ、 デ・トマソ・イノチェンティーミニ、 アウトビアンキA112アバルト、 フィアット・ウーノターボ、 ルノー5GTターボ(←乗っていた!楽しかった)、 初代ホンダ・シティーターボ、 昔のスターレット(丸目のやつ)、シビックCVCC・・・

今の安全基準や環境基準からすれば相当×(バツ)な車なんだろうけれど、楽しい車(一部想像)だろうなー、と思うのは自分だけかな。

 

食や住環境など、何にも増して安全性が最重要なものの存在は否定しないけれど、趣味性の高いものまで「安全性第一」っていうのは必要なんだろうか???

何かあったとき、会社のための「安全策」と感じるのは意地悪&うがった考えなのかな? 

少なくとも、時代に逆行した考えなのは間違いないな。

でも、やっぱり自分には割り切れない部分がある。人は(比喩的な)規則正しい生活と規則正しい食事だけで生きていけるものなのかな。人間ってそんなものなのか?

あなたは何を望みますか?

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恩師の死

今日のことではなくて数日前のことだったんだけれど、高校時代の部活の顧問の先生が亡くなられました。自分の娘が入院中だったので、『死』に関する話題は避けたくて書いていなかったんだけれど、やっと退院したので書く気が起こりました。

当時の部活の先輩からの早朝の電話(高校の同窓会名簿を見ての高校以来の)があって知らされました。

同期では自分しか連絡がつかなかったらしいので、同期を代表して弔電を送りました。なにぶん我が家もバタバタしていたので、田舎に帰ることはできませんでした。

 

 

厳しい人だった。というより滅茶苦茶な人だった。

今のように「体罰」というものが、即問題になる時代ではなく(自分も含めて、そんなの当然と思っていた)、上記の先輩なんて血だらけになっていたこともあった。でも明らかに厳しすぎる部分がある人だったから、先輩たちはどんどん辞めていった(らしい)ので、自分が高校に入ったときは2年生1人(上記の先輩)と3年生1人(2ヵ月後に引退した)の2人しか先輩がいなかった。でも自分はそれを知って入部していた。だって厳しいのは耐える自信があった(中学時代の柔道部の顧問の先生も凄かったから)けれど、ずーっと補欠なのは嫌だったから。人数が少ない団体競技を狙って入部した。(中学時代の柔道は個人競技だったので、とにかく団体競技がしたかった。それも試合に出たかった)

そして1年生は自分も含めて5人。合計7人のバレーボール部。補欠は1人。それは中学時代柔道部だった自分。でも3年生の1人が2ヵ月後には引退したので、自分も(当然のことながら)レギュラーになった。

1年生5人と2年生1人のチーム。夏の大会までの相手は、ほとんど3年生。勝てるわけなかった。でも秋の大会ぐらいから、1年だけ年上の相手にはそこそこいい試合ができるようになった。

でも、その顧問の先生は、先輩たちの多くを辞めさせた先生は、

『1度も、本当に1度たりとも練習に来なかった』

つまり、自分たちのチームは、その先生に全く相手にされていなかった。だからその時は、「先生が練習を見に来てくれるようなチームになろう」といったポジティブな考えと、「見に来ない先生に対する苛立ちや恨み」といったネガティブな感情で練習をしていたように思う。

翌年(自分たちが2年生になった頃)、その先生は初めて来た。そしてこんなようなことを言った気がする。

「いままでのお前たちの練習はクズみたいもんだ。強くなりたいなら教えてやる。でもお前たちについてこれるのか?」

その日からの練習は、激しかった。厳しかった。苦しかった。

でも楽しかった。チームが強くなるのが(素人同然の自分にも)分かったから。

いろいろ教わった。特に身長もない中学時代柔道部の自分には「お前には普通のプレーはできない」と身をもって教えられた。「だからこうしろ」ってことを教わった。

もちろんバレー経験者の1年生が入ってきて、自分のレギュラーも安泰ではなくなって、自主トレの必要性も教わった。クタクタ(という言葉で表すことが可能かどうかは別として)になるまで部活をやった後、家で練習した。スクワットも1000回以上やっていた。身長がなければ飛べればいいだけの事だから。

 

結果は・・・、結論から言うと、強くはなった。県大会で準優勝した。でも全国大会には出られなかった。あと1勝が遠かった。

 

でも、今思うことは、

あの時代(中学、高校)にあの先生達にあっていなければ今の自分は存在しない。あれだけストイックな努力を、僕は自分一人ではできない。

ってこと。

滅茶苦茶だったかもしれない。尊敬できない部分も多かったかもしれない。反発も覚えた。でも、『あの時代にあの先生達に会っていなければ今の自分は存在しない』ことは絶対の事実だ。

もらったものが大き過ぎる。

受け取ったものが大き過ぎる。

「尊敬できる」とか「納得できる」とか、そんな言葉どうでもいいぐらい大きいものをもらった。あの滅茶苦茶な日々から。

 

だから、これだけはハッキリ言える。

『僕は、先生たちのおかげで正面を向いて歩くことを覚えました。』

『僕は、先生たちのおかげで自分に自信を持つことができました。』

 

当時の自分も感じていた、今思い返しても感じる「滅茶苦茶」で「不条理」な「全然尊敬できない面も持った」先生。

でも与えてもらったことは果てしなく、僕はそれを少なからず受け取ることができました。

感謝しています。ありがとうございました。先生と過ごした時間には、一片の後悔もありません。

安らかに眠ってください。生きている間は(特に当時は)激しすぎたと思うので。

さようなら。

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無精ヒゲ

自分のヒゲは、大体において評判が悪い。

「なんか変」 「うわっ、何それ」 「剃った方が絶対にいい」・・・・

 

そうすると、「余計なお世話だ」「何か意地でも剃るもんか」って思ったりするんだけれど、昨日ある子供から言われた一言で、今日はアッサリ剃りました。

 

「ヒゲ無い方がカッコええのになー」

 

 

人の心を(簡単に)動かす言い方や言葉って・・・あるな、実際に。

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自分は今、間違っている

「自分は今、間違っている」という言葉はない。

「自分は間違っていた」というように、それは過去形でしか存在し得ない。

byフッサール(らしい)

 

今日の研修で言われたことなんだけれど、これには深く鋭く納得。特に自分には当てはまる。

 

自分は謙虚ではない。だから「間違っている」と思って行動したことはない(と思う)。

いつも「これでいいんじゃないか?」ぐらいの(曖昧な、でも頑固な)確信を”何故か”持って行動している気がする。

 

自分は謙虚である。だから「間違っていた」と思うことはたくさんある(と思う)。

過去を振り返った時に、「やり直したい」と思うことばかりのような気がする。

 

常に「自分は間違っているかも?」と思いながら行動することなんか、自分にできるのだろうか? でも、それこそがまさに『現象学的還元』だと言われるのであれば(4日前の記事参照)、やるしか(意識して行動する=頑張る)しかなかろう。

 

あと、もう一つ今日分かった(と思いたい)こと、

「徹底した模倣からしか本物の個性なんて生まれやしない」って言葉の意味。

なんとなく(観念的に)分かったつもりでいたんだけれど、それは

「徹底的に模倣することによって、その対象が分かるのではなく、その対象との”違い”がより顕在化してくる。つまり、共通点ではなく違いが浮かび上がってくる。それが”個性”である。」

つまりたぶん個性とは、「違う」と”思い込んでいる”ものではなく、否応無しに”違ってしまう”もののことなんだろう。

いや、「違う」必要さえないのかもしれない。他者を徹底して模倣しようとしても、否応無しに現れてしまう自分自身、それが「個性」だ。

どんなに模倣しても、他者には(外見、行動、考え方・・・なんであろうと)なれるものではない。そこで初めて分かる”自分とは何者だ?”ということ。それが「個性」。

 

ってことは、いわゆる個性的な(変わっている?)人って、単にまわりの人とちょっと違っているだけってことか。真に個性的な人っていうのは、自分を確立している人ってことか。そうか。

あーあ、自分ってメチャメチャ凡人だなー。没個性なんだなー。

これまた「自分は間違っていた」(←過去形)

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生々流転 ~礎となる~

数日前のことだけれど、小さな川沿いの遊歩道を歩いていて小さな”水音”が聞こえた気がして振り返った。

そこには大きな椿の木が一本生えていて(植えてあって?)、その小さな音は、椿の花が小川に落ちた音だった。

何気なく川縁を見渡してみると、あちらこちらに椿の花が、そして小川の上を無数の椿が流されていた。

今日、同じ場所を通りかかった時、あたり一面に今度は”桜の花”が散り乱れていた。

『生々流転』

以前、友人の母がなくなったときに感じた言葉なんだけれど(以下のブログ参照)

http://jidaiokure-blog.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_e603.html

ほんの一時として留まっている時間はない。

自然は、世界は、人は、・・・全てのものは移り変わっていく。

僕たちは、僕たちの意思のまったく及ばない流れの中にいる・・・

僕たちは、僕たち自身の世界の中における無限ともいえるその大きさに対して、自然の、世界の、時間の、歴史の中では、なんとちっぽけな存在なんだろう。

 

だから、今日はこう思った。歩きながらこう考えていた。

 

ちっぽけだよ。

世界といった平面の中で、歴史といった流れの中で極小の”点”のようにちっぽけだ。

でも、僕がいたから開かれた世界もある。

僕がいたからこの世に生を受けた命もある。

だから僕は、そんな世界の、そんな命の”礎”になろう。それで構わない。

何ができる?ってことに悩むのはやめにしよう。

できることをしよう。そう、目の前にあるできることに全力を尽くそう。

 

散っていった花を見ながら、そう考えていた。

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憧れの人たち①~植村直己~

植村さんについては、その存命中の活躍(登山よりも北極での冒険などですね)を今でも鮮明に覚えています。その様々な冒険に、当時少年だった自分は胸を躍らせ、そして青年になってからは、その著書『青春を山に賭けて』(たしか1971年発表。まだ読んだ事の無い人は、ぜひ一読を!老若男女問わずお薦めです。「人って素晴らしいな」って思えます)を読み、

「(自分にはなれないとわかっていたのに)こんな人になりたい」

「(自分にはできないとわかっていたのに)こんなことをしてみたい」

と思いながら過ごしてきました。

植村さんについては、Wikipedia(以下のリンク参照)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%8D%E6%9D%91%E7%9B%B4%E5%B7%B1

を読んでいただいてもわかると思うのですが、その冒険の凄さ(日本よりも海外で、特に冒険に対して理解のあるイギリスで評価されています)もそうですが、人柄(生き方?)に憧れました。

誰にも好かれ、人100倍努力し、驕らず、粘り強く、人一倍大胆で、それでいて「自分は臆病だから」と細心の注意を払い、郷に入れば郷になりきり(従いを超越しています)、いつまでも子供で、、、、(昔「山と渓谷」で、小西政継さんが植村さんのことを語っていた話は面白かったなー。人間植村が垣間見れた気がした。その小西さんも、もういない・・・)

そして1984年2月厳冬期のマッキンリーから帰ってこなかった。。。。

その日(そしてその後数日)のことは、今でも覚えています。

自分もそうだけれど、日本人の誰もが「あの植村が遭難するわけが無い」と思っていました。「いやーごめんごめん、ちょっと吹雪いちゃってさー」と恥ずかしそうにひょっこり出てくると思っていました。普通の人だったら、数日で「生存は絶望的」と言われるんだろうけれど、あの時、日本人の(世界中の?)誰もが「どこでも(アマゾンでもアフリカでもチベットでもアラスカでも北極でも)普通に暮らせる植村は、何日でも(何週間でも?何ヶ月でも?)生き延びられる」と信じていたと思います。

悲しかった。

ドーハでサッカー日本代表が負けたときよりもぜんぜん立ち直れなかった。

ある意味、20年以上経った今でも自分は立ち直っていないのかもしれません。

 

僕は、

NikonF2titan(ニコンF2チタン)今も使っています。

あれから山登り始めました。

冬山なんかの準備は慎重ですよ。

最近、また体力強化に努めています。

なるべくニコニコしていられるようにしています。

地方に行ったら、そこのものを食べるようにしています。

そして、

いつまでも、冒険心を忘れないようにしています。

 

あなたにはなれない。

あなたのようには生きられない。

あなたのようなことはできない。

 

でも、

昔よりも今、今よりもこれから、

少しでもあなたに近づくことはできる気がします。

自分のやり方で。

自分の人生で。

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「見上げる」もの③ ~夕闇とオリオン~

今日も日が沈んでからのランニング。

昨日のブログに書いたように、ここ最近はウォーキングばかりで走っていなかったので、久しぶりに気持ち良かった。体は走ることを忘れていなかった。

夕闇の中、帰宅を急ぐ(と思われる)車のヘッドライトと時たま通る新幹線の音(姿は見えない)の中、線路沿いの歩道を走っていた。

 

ふと、走りながら見上げた空にあの懐かしい形、オリオン座が光っていた。

『夕闇とオリオン』 

季節は廻っている。

あの頃、深夜の天空にどっしりと存在感を示していた冬の星座が、今は夕闇の中に沈もうとしていた。

地球は回っている。そしてやはり季節は廻っている。人の日常なんかには全く無関係に。

 

いつもだったら、走り終えてストレッチをしてからすぐ家に入るんだけれど、今日は走り終えてから少し近くを歩いた。ライトアップされた築山の桜があまりにも綺麗だったから。

『桜とシリウス』

生まれて初めての取り合わせ。暗闇に浮かぶ桜の向こうに輝いている天空一の輝きシリウス。冷たい光のシリウス。マンションの向こう側に沈みかけていた冬の大三角の中のシリウス。

 

そんな世界に浸っている時に気付いた、

『薄いオレンジ色に縁取られた富士山』

夕闇の中かろうじて見えた、夕日の残照をかすかにまとったシルエットだけの富士山。美しかった。

 

その後ストレッチ中に見つめていた、

『濃い藍色の中の北斗七星』

その柄杓の中を、ライトを点滅させながら飛行機が通り過ぎていった。

 

 

そして、そんな時を過ごした後、家族の待つ家へと入っていった。家族の中に帰っていった。

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祝!100件目

なんと、これが100件目の記事です。

昨年の11月から始めたブログ。

勝手に気ままに書かせてもらっているブログ。

今だに書きたいことが尽きないブログ。

思いがけないこともなかったわけではないけれども、書き始めて、そして続けてて良かったなーと思うことが多いです。

何回か見に来てくれている奇特な方、

たまたま何かの検索で訪れられた方、

毎日、必ず誰かは見に来てくれていることが、「よし、書こう!」って気にさせてくれます。

ホント、ありがとうございます。

感謝しています。

 

  

ところで、本日感じたことを一つ。

以前も書いたけれど、普段車で通り過ぎていた道をランニングで通ったとき、今まで知らなかったものの存在に気づいた。

今日、普段ランニングで通っていた道を歩いて通ったら、またまた今まで気付かなかったものに気付いた。

やはり、移動速度は『遅いに越したことはない』らしい。

時間にルーズで、ギリギリになって慌ててばかりいる日常を少々反省した。そんなことじゃー、せっかくの『何か』も見つけられないかもしれないから。

今まで、いったい何をどれだけ見逃してきたんだろう?

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過去と未来の重要度に関する考察

前々回の記事にも書いたし、最近こんなことばっかり考えているような気もするけれど、

「過去」とは絶対性を持つものではなく、その当人の認識の問題(のみ)なので、(絶対に)時と共に変わっていっている。

例えば、同じ出来事・人物に対しての認識が人によって正反対になることは珍しくないし、自分自身の中でさえ時間の経過と共に認識が変わることはよくあること。(心の傷が癒えることなんかもそうかな) そしてそれは、今現在の心の持ちようによって自ら変えることができる。

さらに、過去から(広くは歴史から)学ぶことは、学問(=積極的に生きること)の基本だと思うし、自らの過去を振り返りそこから教訓を得ることは、「今を生きる」上で必要不可欠なことといえる。

だから、ほっておけば(人間の自己防衛機能上仕方ないのかもしれないが)「甘い」記憶ばかりになりがちな過去に「喝」を入れ、自分が最も避けたい見たくない過去から今の自分を創り上げようと考えることは、あながち間違ってはいないんじゃないかと考える。

 

それに比べて未来を考える(夢見る)ことは、現状を留保するだけじゃないのか? それは決して自らを鍛えてくれはしないんじゃないか?

「無計画に生きよう」というつもりはないけれど、今を(精一杯)生きられないのに、未来に夢を託しても何だかなーと思ってしまう。

「今」の結果でしかない未来を、(今を変えることなく)変えることができないのは当然で、いつかの繰り返しになるけれど、

『未来は(都合の良いようには)変えられない』

 

今が一番大事なのは当然として、「終わってしまったこと」「過ぎたこと」にもうちょっと向き合うべきなんだろうな。今を確立するためにも。

どんなに頑張っても変えられないもの(=宿命)に対する”いつくしみ”の気持ちを持ちながら。

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「梅」と「満月」と「週末」と「ビール」と「桜」

近くの公園では、そろそろ梅が終りを迎えている。

散った花の上を走り去るのも、それはそれで一興。

特に、固く締まった土の上に落ちた花弁は、その色のコントラストが美しい。

 

昨晩と今晩、何気なく見上げた夜空に浮かんでいた見事な満月。見て満足。

 

天気の良い週末はどこも大賑わい。

公園に溢れる人と、そこを縫って走る週末ランナー。

バーのカウンターにも溢れる人と、普段より若目の客層と大きな声。

やっぱ、これなら平日の方がいい。

 

フィリピンのビールとインドのビール。

気分は上々、アジアンテイスト。

でも、本当の”テイスト”重視なら、自分はエビスかプレミアムモルツだな。

 

自分の職場のある街で最も早い桜はすでに満開。

それを見ながら感じる”喜び”と若干の”狂気”。

桜って、ゆったりした気分にはさせてくれないね。何でだろう?

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「欲望の誤差の円環」の中に住む自分

先週の社内研修において話された(考えさせられた)こと。

 

竹田青嗣(哲学者)の著書を題材に「個人と社会」について学んだ。(と思うのだが、自分の解釈が間違っているかもしれない)

以下、自分の解釈も入れた要約は、

『(恋愛や芸術において顕著なように)人間は日常の論理からはバカげている(=不条理である)思いを(特別な意志や能力無しでも)持つことができる(場合がある)。』

『しかしながら、そのことは決して誰にでもといったかたちでは存在しない(むしろ、多くの人間は得られない=自分も得られない一人である)』

『多くの人間は、日常化され交換可能(=代替可能)な(かけがえのないというかたちではない)<美>や<エロス>を味わい消費することしかできない』

『その、日常世界からくみ出すしかない(=かけがいのないものではない)<美>や<エロス>は、他人との誤差(=相対的、=他人に勝りたい)により生じるものでしかなく、それは他人に勝られれば価値の無くなるもの(=それにより次々に新しい欲望が産まれる)、つまり”欲望の誤差の円環”の中に封じ込められたものでしかない』

『この世界は、多くの者にとって”欲望の誤差によって織られた相対の世界”であり、極めて限られた(一部の)成功者だけが自分の夢を消費し続けることができるが、大部分の人間(自分もそうであるが)は、一瞬満たされた夢がたちまち死に尽くす円環の中に閉じ込められる』

『そんな中でも一部の限られたものは、誤差の円環に閉じ込められていない(=超越的な)<美>や<エロス>に向かうことができる』

といったことでした。

自分も含めて、多くの人間は”誤差の円環”の中に閉じ込められている、つまりほとんど全ての面で”自閉”している。

その通りだと思った。

自分は、何か超越的な価値(=<美>や<エロス>)に向かえてはいない。

その自覚はある。

 

そこでどうするのか?

そこで私たちはどうすればいいのか?

 

最も重要なことは(いつも言われるけれども)、その”自覚”である。

自分自身が閉じ込められ自閉しているという自覚。それ無しに話は進まない。

 

ではその次は?

これは竹田青嗣も言っているが、超越性を持って生きていけない者(=自分)たちに残された唯一の可能性は、<社会>(=集団)という概念である。

もちろんそのためには、今までの<社会>といった概念の本質を考え直してみる必要があるのだが、(あえて誤解を恐れずに簡単に言わせていただければ)「個人として夢や希望の実現が困難なのであれば、社会(集団)の力でそれを達成しよう」といったことに他ならないのだと思う。

 

そう考えられればスッキリする部分がでてくる。

なぜ私たちは会社を作ったのか?

なぜ個々の協力が必要なのか?

なぜ今までなかなかうまくいかなかったのか?

そして、これからどうしていかなければならないのか。

 

追記・・・自分一人ではなかなか解決できない状況、状態の時は、人(実在、本の世界)に頼るってことも必要である。またその逆(他者の力になる)のことも。

自閉は自弊をまねく(シャレじゃなくて)

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一番難しいかも・・・

自分のことを「大したことのない人間」と(素直に心から)思えるか?

もし、本当に(本心から)思えるんだったら、

●人の意見(直接的な人、本の中の人)に真摯に向き合える(→だって自分は大したことないんだから、人から教えを請わなきゃ)
●今までの自分の行動(こだわり?)をその場で改められる(→だって今までの自分のこだわりなんて大したことないんだから、そんな行動を改めるぐらい朝飯前)
●人からの自分に対する意見に、一々感情的にならない(→だって感情的になるのはどんなときだ?「それは違う」と思うときが大半)

つまり、本当に思えていれば「人の話が素直に聞けて」「今までの行動を改められる」ってこと。
 

幸いなことに自分に対して真摯に意見を言ってくれる(アドバイスしてくれる)人が身近にいてくれるのに、それなのに

開き直っちゃうのはなぜだ?
こだわっちゃうのはなぜだ?
腰が重いのはなぜだ?

口では「自分なんて・・・」と謙虚ぶったことを言いながら、
心の中では「でも、自分だって・・・」と傲慢なことを思っている。

ここから脱却することが、たぶん一番難しい。

本当の意味で「自信」のある人は、自分自身を変えることに抵抗はないはず。一流の人は、常に自らのモデルチェンジを考えている。

そうは分かっていても・・・。

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人を喜ばせること

以前、どこかで書いた気もするが、

「自分がもらったプレゼントと贈ったプレゼントは全くつりあわない」

「贈った花束は、もらった花束の10倍ぐらいかな?」

「笑うより、笑わせる方が得意だし好きである」

 

 

喜んでもらうことは、かなり好きである。

ただ自分の好きなことをやっているだけだから、それで感謝されるのであれば、それこそ望外の喜び。

そういった意味では、今の仕事は天職に近いと言えなくもない。

実際、楽しくやれているから。

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両極を意識すべきその理由

先週金曜日の余韻が、まだ自分の中でくすぶっている。

 

大きな喜び(と、若干の悲しみ)が凝縮された”きらめくばかりの『生』”に溢れていた時間と空間。

そしてそれと同じ日に経験した、

自らの力では何をどうすることもできない、眠っているのかと見まごうばかりの”圧倒的な静寂に包まれていた『死』”がもたらす、諦めと受け入れの時間と空間。

 

どちらも、実は「非日常」ではなく、ごく普通の「日常」であるってことに翌日になって気付いた。

きらめく生の瞬間も、静寂の死の瞬間も、いつでも必ずどこかに存在している。たまたま自分のそばにそれがないだけ。その存在自体は、決して非日常ではない。

 

その両極を、常に両側を、頭の隅に留めておく事が、実はものすごく重要なんじゃないかと考え始めている。

時間が無限に存在してい(るように思えてい)た若かったころとは違い、時間は有限で、かつそれに羽が生えている様にもの凄い速さで過ぎ去っていく今だから。

両極を(常に)考える必要があるんだ。

そこから「今は何をすべきか」という”身の振り方”も生まれるんだろうし、

(他者も含めた)周りのもの(物・者)に対する”慈しみ”の感情も生まれる気がする。

 

想像力の欠如した世界からは何も生まれない。

少なくとも、今の自分を前に進ませる「何か」は生まれない。そう思う。

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生きていくことと死んでいくこと

今日は合格発表だった。

自分のではなく自分が教えている子供たちの。

嬉しかったよ。いろいろ嬉しかった。

5年越しでこの日を待ちわびていた子もいたし、本当に後がない子もいた。

一人一人みんなに、それぞれの思いと歴史があったから。

一人一人みんなに、それぞれの行動と努力があったから。

今日一日だけで何度握ったか判らないいくつもの手の感触は、明日への(もちろん君たちにとってもあるだろうけれど、ここでは自分にとって)糧になってくれる。

今日一日は、どんな結果になっていたとしても、みんなにとって生きている証になっている日だった。その喜びと悲しみの中に『生』が輝いていた。みんな間違いなく生きていた、いきいきと。素晴らしかった。

 

 

今日、友人の母が亡くなった。

穏やかに眠るように横たわっていたその姿を見ながら、

「生きているってなんだろう」と思っていた。

目の前の人は眠っているのか?死んでいるのか?その違いは何なんだ?

確かに、その時の僕は涙をこらえるのに精一杯ではあったが、そんなことを考えていた。

その時友人の兄が話してくれたいくつかの不思議な話と一つの言葉。

「結局は順番だから」

どのような意味をこめて語られたかはわからないが、胸に響いた。

”順番だから”

”自分の力ではどうしようもない現実がある、まぎれもなく”

”それが運命”

 

その後、彼の家を出て見上げた空に(自分が住んでいる所とは明らかに違って)輝いていた星たち。綺麗だった。喜びも悲しみも全ての感情も届かない荘厳で冷え冷えとした、それでいて優しく見守ってくれているような星空。まいったな。

”生々流転”

そんな言葉が頭の中に響いていた。

精一杯生きて、そして静かに死んでいく。

そこには、自分の力の及ぶこともあるけれど、圧倒的な大多数は及ばないこと。

たった一日の中で、密度の濃い両極があった。

 

最後に、先週も書いたけれど BUMP OF CHICKEN の supernova 1節を載せたいと思う。今日はいつにも増して沁みた。

 

誰の存在だって 世界では取るに足らないけど
誰かの世界は それがあって造られる

君の存在だって 何度も確かめはするけど
本当の存在は 居なくなってもここに居る

僕らの時計は 止まらないで動くんだ

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「見上げる」もの② ~下弦の月~

これを読んだ人にちょっとだけお願い、

「明日の夜中12時過ぎに、東の方向にある月を見られてはいかがでしょうか?」

そうすれば、半月(普段見慣れている、夕方から夜中にかけて見られる「上弦の月」ではなく、真夜中から明け方まで限定の「下弦の月」)が見られます。

だからどうだってことではないんだけれど、深夜にふと下弦の月が見られた時(だいたいいつも運転中に急に目に入ってくる場合が多いが)、「うわっ、でっかい」と毎回思うので、同じ感覚を味わってもらえたらちょっと嬉しいかな?と思いました。

ただそれだけです。

 

ところで、今晩はその月を見上げた時に周りの星たちを眺め、(当然のことながら)昨年の夏から秋にかけて見上げていた星空との違いを改めて感じた。

昨年は、夏から初冬にかけて、例年以上に空を見ていた、というより見る機会が多かった。そしてここ数ヶ月は、なんだかんだで空を見上げる余裕も失っていて、フト気付くと季節は、時間は、そして様々なものは移り変わっていた。

それは当然のことなんだけれども、その『当然』のことだっていつも自覚(実感)しているわけではなく、ホント、フとした瞬間に実感させられるもんなんだなーとつくづく思いしらされた。

 

様々なものが移り変わっていた、いや、移り変わっていく、確実に、着実に、実際に、完全に。

そしてそれは自明の理、当然の帰結、受け入れなければならない現実。

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2・26

きょうは2・26

11年前の今日、夢と希望に胸をいっぱいにふくらませて始めた

これまでの間、決して順風満帆ではなかった

いなくなってしまった人もいる

自分自身も、いない方がいいのかな?と思ったこともある

そしてみんな、着実に歳をとった

 

あの時持っていた夢は、希望は

今もその胸の中に存在するのか?

 

あたりまえだろ

なければ今もやっているはずがない

それがなくなれば、とうの昔にやめている

そしてそれだけは

永遠に失わないと『決めて』いる

気分や感情の問題ではない

 

それが決意

それが責任

それが自分の人生

あの日『決めた』人生

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一つを選ぶこと(一つしか選べないこと)

いろいろ考えても、

とる(とれる)行動は一つだけ。

これは、たぶん間違いのない真実である。

 

前回のブログに書いたのが、『その選択が実際に自分にできる唯一のことで、それによって未来が決まり(変わり)、自分が形作られていく』ってこと。

でも、今日「ちょっと違う」ことに気付いた。上の文章の前半部分は、間違っている。

それは、「選択のほかにできることがある」ってことで、むしろ、そっちの方が重要と思われる。 それは・・・

選択肢を増やす努力を必死にすること。

「こうだ!」と確信した(と思われる)ことがあっても、その反対の可能性を捨て去らないこと。

 

たまたま目の前にあるものから一つを選ぶのではなく、いろいろ考え、迷い、調べ、行動し、最後の最後まで他の可能性を追求した上での『選択肢』のなかから選ぶべきなんだ。

どうせ行動は一つを選ぶ(一つしか選べない)のだから、悔いのない選択をするべきなんだ。

無自覚、無意識に目の前の(たまたま目に入った)選択肢を選んできた今までが、ちょっともったいない。

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気をつけているんだけどね

ここ最近のブログでも取り上げてきたけれど、今、時分が意識的に気をつけていること、

『何かで不愉快になったり苛立ったりしたときには、その対象をひとまず僕個人とは関係のないどこか別の区域に移動させてしまう。そしてこう思う。よろしい、僕は今不愉快になったり苛立ったりしている。でもその原因は、もうここにはない領域に入れてしまった。だからそれについてはあとでゆっくりと検証し、処理することにしようじゃないか、と。そうして一時的に自分の感情を凍結してしまうわけだ。・・・・(「ねじまき鳥クロニクル」より)』

『相手の中に人並みはずれて崇高な何か、鋭敏な何か、温かい何かをさぐりあてる努力をするべきなのだ。どんなに細かい点であってもかまわない。人間一人ひとりの中には必ずその人となりの中心をなす点があるはずなのだ。(中略)それがどれほど陳腐にひびこうとも、いちばん重要なポイントは愛情と理解なのだ。・・・・(「回転木馬のデッド・ヒート」より)』

『ただ愛情をこめて丁寧に作っているだけだよ。それだけでずいぶん違うものなんだ。姿勢の問題だよ。様々な物事を愛そうと努めれば、ある程度までは愛せる。気持ちよく生きていこうと努めれば、ある程度までは気持ちよく生きていける」(中略)「それ以上のことは運だ」・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

『何かを無理に変えようとせずに、物事が流れていく方向を見ればいいんだ。そして公平な目で物を見ようと努めればいいんだ。そうすればどうすればいいのかが自然に理解できる。でもみんな忙しすぎる。才能がありすぎて、やるべきことが多すぎる。公平さについて真剣に考えるには自分に対する興味が大きすぎる」・・・・ダンス・ダンス・ダンスより』

 

難しい。知識として認識したものを、日常生活に生かしていくのは難しい。

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騒ぐ心を

「騒ぐ心を静めるには、『ことば』の力が必要」ってことらしい。

 

そうだな、人は人に

話したい、

話してもらいたい、

聞きたい、

聞いてもらいたい、

読みたい、

書きたい、

 

人は人と(直接的であれ間接的であれ)繋がっていたいんだ。

それだけなんだ。

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癒えるものと癒えないもの

時がたてば・・・・

癒えるもの

・具体的なできごとに対する様々な感情

・苦い想い

・傷

・過去に対するもの全般

 

癒えないもの

・焦燥感

・不安感

・どこにも行けない無力感

・未来に対するもの全般

 

実は、

癒える、癒される、癒しといった言葉は、そんなに好きじゃない。

もしかすると、心からそれを望んでいるのかも知れないけれど、感覚として「それは望んじゃいけない。結果としてそうなるのは良いとして、望んじゃいけない。それを求めるより・・・突き進め!」と思っている気がする。

自分自身、女々しい人間であることを(そこそこ)自覚しているからこそ、せめて意識は「立ち止まるな、突き進め」

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始まりと終わりについて

アクセス数が1000を超えました。皆様、本当にありがとうございます。

2ヶ月ちょっと前にこのブログを始めたときには、「誰に見てもらうでもなく、まあ記録として残していければいいかな」と思っていたのですが、自分の想像以上に見てくれてる人がいて、本当に嬉しく思っています。ありがとうございます。

 

それでは、本日の独り言を・・・

何でもそうだけど、何かが始まるって事は、その瞬間からすでにどんどん終わりに近づいていくことになるわけですよ。

それが終わってほしいものなら、早く終わるように頑張ったり、ただひたすら耐えたり・・・。

それが終わってほしくないものなら、終わりがなるべく先になるように必死になったり・・・。

 

ってことは、何事においても”終わり”を意識して”今”を精一杯「楽しむ」「努力する」「生きる」「・・・」ってことになるんだろうな。

自分は今まで、自分でも驚くぐらい”終わり”を意識してこなかったからな・・・。だから、仕事でも遊びでも何でも「あれっ、もう終わったの?」ってことがすっごく多くて困る。視野が狭いというよりは、先を見通さないってことか。(そういえば、将棋でもマージャンでも先を読むのは好きじゃない。打ちたい手を打ちたい。=弱い)

 

これからは、少しは「”終わり”を意識する≒先を読む」ってことをしよう。

と、今日、強く思いました。

ただそれだけなんだけれどね。それだけでも、自分には一大転換になるはず。

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反応

不器用である。特に、人付き合いが。

 

仕事がら、それは致命傷なのではあるが、非常に不器用である。

一見、器用な人間に見られがちだが、それは自分に余裕があるときだけである、ってことに周りの人たちは気付いていない。

特に、自らどう反応してよいものか迷っている時には、とっさの反応は(全くといっていいほど)できない。

「そのセリフは何だ?」

「そんなこと言いたいんじゃないだろ?」

と、自分の中から(妙に冷めた冷静な)自分の声がするが、その声とて自分を助けてはくれない。むしろ、反応できなかった自分に対して「あ~ぁ」とため息をついている感じがする。

自己嫌悪・・・・

 

今日、久しぶりに輝きを見た。ホント・・・文字通り輝いていた。

が、もちろん自分は何の反応もできなかった。

何事もなかったように、何も見なかったように、ただ平静を装っていた。

そんな自分が、たまらなく嫌だった。

 

ところで、今日の午前中にテレビで『クライマー 山野井泰史』さんの特集を見た。かれこれ10年近く注目してきた人なので、その栄光と挫折、光と影、成功と失敗に共感しながら見ていた。

そこで感じたこと。

「挫折は受け止め方によっては挫折とはならない。自分が前に進もうとしている限り、挫折は次への原動力である。挫折がその人の歩みを止めるものになるのか、それとも原動力になるのか、それを決めるのはその人の生命力。そう、生命力。バイタリティー。」

いずれ、登山関係の内容もいろいろ書いていきたいと思っています。書きたいことがまだまだたくさんある。

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喜怒哀(楽)

今日、走りながらフッと気付いたこと。

自分には喜怒哀楽の”楽”が、あまりないのではないか?

喜・怒・哀は、確実に、非常によく、ちょくちょく、毎日のようにある。でも楽は???

 

だから、”普通の状態”が下手(というより、できない?と思うほど難しいと感じる)なのかな。

極論を言えば(そこまでは考えていないが)、敵か味方かしかなくて、中立がない感じ。

 

仮に、仲が良かった人がいて、何かの事情で”普通”に戻らなければならなくなったとしても、普通には戻れないと感じる。普通が分からない。つまり、何もなかった以前には戻れないんじゃないかと感じる。

不器用なのか?恨みがましいのか?引きずる性格なのか? うーん、わからん。でも明らかに、自分には”普通”は存在しない。(正直、嬉しいことではないが)新たな発見。

 

喜怒哀(楽) ふつーに”楽”が欲しいぞ!気楽になりたいぞ!喜・怒・哀だけじゃ疲れるぞ!他人も疲れさせるぞ!

どうやったら肩の力が抜けるのだろう?知りたい・・・。

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振動 ~オーバードライブ~

ちょっとだけ昨日の続き・・・

 

「他人に影響を与える」って何だ?

自分は誰からどうやって「影響を受けた」んだ?

「こんなことすればいいよ」とアドバイスを受けたか?

 

いや違うな、アドバイスじゃない。当然指示でもない。

そんな直接的なモンじゃない。もっと間接的だ。

 

直接は言われていない。自分が感じたんだ。

その人、その人自身(の中身)を見て感じたんだ。

そう、言われたんじゃない、感じたんだ。

動かされたんだ。その人の行動に、魂に。

 

熱いその行動に、魂に、火傷しそうなぐらい危ないその人自身に。

影響を受けるってそういうことなんだ。

その人の振動に、共鳴、反共鳴(こんな言葉あるか?)、しながら、いつのまにか自分自身が動かされていた。振動していた。 そう、ドライブ感・・・。

 

「熱い本物だけが影響力を持つ」

そう考えたい。そこに説明はいらない。

 

やっとハッキリ分かった気がする。

僕は振動していたいんだ。そして、人を振動させたいんだ。

 

振動した人をどこかに連れて行きたいとは思っていない。

もちろん、自分の後をついてきて欲しいとも思わない。

 

ただ、動かしたい。だって生きてるって、人が生きてるってそういうことなんじゃないか?

生きてほしいよ、精一杯。 生きていたいよ、精一杯。

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例えば一人ですわっている時に

比較的、今までの自分は周りに恵まれてきている。

これはよく人にも指摘されるし、その自覚もあること。

今の自分(存在自体、立場、環境、その他もろもろ)が在るのも、周りの人あってのものだという自覚がある。というのは、何も「皆様のおかげで・・・」的な謙虚くさいことを言いたいのではなく、自分を創ってきたのは自分であるなんて思っていないだけのこと。

例えば、子供のころに人の影響で読み始めた本の影響は、生き方、ファッションその他様々な自分の今に影響を与えている。今の自分に、人の影響でないものなんて無いんじゃないか?と思うくらい。確かに、影響を受けたことに没入していく傾向があり、それはそれで自分を形作る重要なファクターになっていると思うけれど、そんな自分の志向性よりも、何に向かうのか(=人の影響)の方がやっぱ圧倒的に大きい。

 

ところで、比較的周りに恵まれてきた自分は、自然自然のうちに「周りの人は自分のことをどう思っているだろう」ってことを、かなり日常的に重要視してきた気がします。こんな自分のことを去年から「思惑人間」と呼んでるんだけれど(以下参照)、

http://jidaiokure-blog.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_fcf5.html

ここから脱却するのはホント簡単じゃないです。周りを遮断するんじゃない、でも気にしすぎるんでもない、昨日のブログの内容(村上春樹のダンス・ダンス・ダンス)から引用すれば『何かを無理に変えようとせずに、物事が流れていく方向を見ればいいんだ。そして公平な目で物を見ようと努めればいいんだ』的なスタンスで。そして、小さく周りを気にするんじゃなく、大きく周りに(今までは自分に与えられてきた、良いと思われる)影響を返せるようになりたい。

そのためにも、今一度自分を見つめなおすことが必要なんだと思う。

だって、周りに影響を与えるって、それを目的にしちゃったら、とたんに胡散臭いものになってしまうと思われ、むしろ何か”よき”ものに打ち込んでいる人、周りへの影響なんか考えていない人が、真の影響を与えられるのではないのかと思うわけです。

例えば、人に好かれるか、認められるか否か?ってことなんか、好かれることを目的にしてしまったらどうなってしまうのか?認められることを目的にしてしまったらどうなってしまうのか? 目的はそれじゃない。

魅力があれば人は集まる。本物だったら人は聞きたくなる。ただそれだけなんじゃないか?

例えば一人ですわっている時に、話しかけられるのはどんな人だ? 学校で、職場で、その他様々な場所で。それが魅力なんじゃないかな。

自分を磨こう。どこまでできるかは気にしてもしょうがない。ただ磨き続けよう。それができなきゃ他人なんて救えない。自分さえも救えない。

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今日、僕は

今日、僕は、逃げ出した。

そう、明らかに、間違いなく、本当に逃げ出したんだ。

自分にとって、耐えられそうもない現実から、

そして、自分自身がまたフォースの暗黒面に落ちそうになることから、

尻尾を巻いて逃げ出したんだ。

 

でも、今日の僕にはそうするしかなかった。

きっと、他の選択肢はなかった。

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フォースの暗黒面=ダークサイド

のっけから、ある本の結論じみたことを書かせていただく無礼をお許しください。

昨年まで読み続けてきた、約100冊のスターウォーズ小説(映画の後の時代のもの)の最後の方(といってもまだまだ続いているんだけれど、自分が読んだ最後の方ってこと)で、ジェイセン・ソロ(ハンとレイアの長男で、多分今後ルークの跡を継いでジェダイを率いていくようになると思われる)が、

「フォースには、正しい面と暗黒面(ダークサイド)なんてない。フォースは混然一体としているもので、ただ見方、解釈が存在するだけだ。=ダークサイドは存在しない

てなことを言うわけです。それを読んだ時、けっこうブッたまげた。

だって、ダークサイドの存在、ジェダイが暗黒面に飲み込まれてシスになるってことは、このシリーズの大きなテーマの一つだったはず。エピソード2~3のアナキンはどうなるんだ?

 

でも、ダークサイドはある。ジェダイには無くとも、自分にはある。マズイマズイと思いながら、ダークサイドに落ちかかる(いや、すでに落ちた?)ことがある。そんな気がする。

他者に対して、目の前の現実に対して、キレるんじゃないんだよ。ものすごく暗い(黒い)感情がムクムクと湧き出してくるって言えば分かってもらえるかな。どうしようもなく。そしてそれに、自分の行動が飲み込まれていく・・・。

 

でもそれって、自分は実はフォースが強いからか?もしかしてジェダイ?

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扉の先に

「扉の先には、新しい世界が広がっている。全ての扉の先に、今まで知らなかった世界がある。」

 

これは、今日BARで一人でシングルモルトのロックを飲みながら”フッ”と考えたこと。

何てことは無い、あの日この店のドアを開けなかったら、今ここに自分はいなかっただろうし、違う店のドアを開けていれば、違う世界に身を置いていたんだろうなーって考えてたってこと。

ただそれだけ。

でも、ただそれだけの積み重ねで人生は進んでいくんだなーって思ったんだ。

あの日の一言、あの日のあの行動、開けた扉、開けなかった扉、言った一言、言えなかった一言、やったこと、やれなかったこと、気付いたこと、気付かなかったこと・・・。

うまくいっていた過去に対する未練はあるし、うまくいかなかった過去に対する後悔もある。でも、どんなに望んでも、それを変えられないのはあたりまえ。だったら、目の前に(何時だって)無数に存在している扉に目を向けた方がいいよね。

 

「何が待っているか分からないけれど、ひとまずいろんな扉を開けてみる。そう決めたんだ。」

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やってしまいました・・・坊主頭

結論から先に言いますと、

この年にして、人生で最も短い髪型(=坊主頭=0.5mmほど)になってしまった。

丸刈りにするという方向性は予定通り。ただし、その程度は想定外。

10mm程度にする予定が、バリカンの長さ調整のアタッチメントをいったん外して、その後付け忘れた状態で一気に真ん中からガガガ・・・とやっちゃいました。ハッと気付いて鏡を見てしばし呆然。

いろいろ何とかできないかチャレンジしましたが・・・、結局その長さで全体を統一しました。 

頭が寒い。

今日一日で、何回「どうしたんですか?」の質問に答えたか? → 17回でした。

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充実した一日

昨日のブログが、too”気合入る” and too long だったので、今日は力を抜いて短く(の予定)。

昨日、今日と仕事は休み。

午前中に走って(年末年始のブランクを感じさせない1時間で、満足)、ディスコ(車)を修理に出しに行って(前述の窓修理をディーラー系の修理工場へ)、午後からは家族でお出かけ。

バーゲンが主だったから自分は娘の世話が多かった。とても楽しかった。抱っこがキツイ重さ(16Kgぐらいかな)になってるけれど、頑張りました。

昨年の一時期と違って、その瞬間瞬間を楽しめている自分に一安心。

まずは、昨日立てた年間目標に向かって、なかなか良いスタートです。

以上 (おっ、やった、自分にも気楽でショートなブログ書けるじゃん)

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そうだ、起承転結だ

さっき気付いたんだけど、いつのまにか500アクセスを突破していた。

みなさん、ありがとうございます。

ブログを始めたときは、「他者に日記を公開するとは?」と半信半疑だったけど、ここ2ヶ月近く続けてみて感じたことは、「書く(話す)ことで自分自身に区切りを付けられる」「少なからず読んでくれている人がいるっていうのは、生活の上でも励みになる」ってことです。

繰り返しますが、みなさんありがとうございました。これからもよろしく!

 

ところで、「起承転結」

 

今日、フッと思ったこと。

(年齢的に考えて)自分は、人生の折り返し点を過ぎてしまっている。

先ず、そのことに無自覚だったことが少々悔やまれる。確かにいろいろ無計画に生きてきたけれど、今までそれで済んでいたのは『若かった』からだと思った。これからの限られた生を充実させていくためには、なるべく”無自覚”なことは避けようと思った。これって、今までの自分の生き方を変えることになるんだけれど、それでいい。そうする。

そこで感じたのが、「折り返し点は無自覚に過ぎてしまったけれど、人生の何かケジメっていうか区切りっていうかそういったものを付けたい」ってこと。そしてその瞬間に、

『起承転結』

って言葉が浮かんだ。

そっか、そうだよね。ものごとには起承転結があるわけで、昨年からの自分自身の様々な変化(生活・精神的・その他もろもろ)を考えると、自分は今、この先いつ来るか分からないけど『結』の日を迎えるための『転』の時期なんだ。

だったら、思いっきり、目一杯、自覚的に(←これ重要だと思う)変わってやれ、と思った。

『今まで避けてきたことにも手を付けて行こう』って決めた去年。実際に手を出してみたいくつかのことから感じたのは、「もっと早くから・・・」ってことだった。時間は取り戻せないけど、今できる精一杯をすることはできる。 

そこで、(ちょうど年始だし)今年の目標を掲げます。今まで年の初めに目標なんて立てたことがなかった(むしろ、”そんなこと”って避けていた)けど、今年は立てる。そして達成する。

体重64Kg (昨年5月に70オーバーからスタート。ランニングのみで達成する!)

20Kmを2時間で走る (目指せ、ハーフマラソン!)

教えられる学年、教科を増やす (仕事上の目標。既存の教科の強化(←おっ、シャレ)は当然として)

家族との時間を増やす (生活の基本。山登りやキャンプなど、本来の自分のフィールドを再確認する)

両親をモルディブに連れて行く (何時かは・・・って言っていたら、永遠にできなくなるかもしれない)

習い事をする (変な目標だけど、人から習うのは嫌いな自分としては一大決心)

人のために行動する (去年から引き続き目標とする)

笑ってすごす (辛いときこそ笑い飛ばしてやる!自分にはできるはず!)

まずは、こんなもんかな。あとは気付いたときに増やしていけばいいや。

 

最後に(って、長いな~)、

今日新聞見ながら涙が出た。

苦しい人のために必死に活動している人の記事と、自分自身を究極まで追い込んでいる人の記事に。

「昨年からのオレは何をやっているんだ?自分自身の中で、狭い世界の中だけで何をやっていたんだ?オレはオレでなくなっているんじゃないか?」って思ったら、涙が出ていた。

自分の今までの過去を振り返ってですら、今より苦しいことはたくさんあっただろ。さらに世の中には、もっと苦しい状況でも自分を見失わないで力を尽くしている人がたくさんいるだろ・・・。お前はこの程度の人間なのか?この程度の人生を歩んできたのか?この程度の人生を歩んでいくのか?

そんなわけないだろ。オレはオレだよ。

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変える、変わるキッカケ

いろんなことがあった2007年

たぶん、いろんなことがあると思われる2008年

何でそう思うのかっていうと、

いろんなことをしたいと思っているから。

具体的に考えているものもあるし、全然具体的ではないものもある。すでに行っているものもあるし、まだまだのものもある。でも、最近、本当に心から思う、「固定化しちゃだめだ」「流されて生きるのではなく、能動的に!」「・・・自分は何だ?誰だ?何者だ?何がしたいんだ?何を選ぶんだ?どこに行くんだ?どう生きていくんだ?  そして、どう死んでいくんだ?」

だから、今年も。

 

年末年始、田舎に帰省していて、いわゆる「団欒」を味わっていた。自分の両親、兄弟、その配偶者や子供たち、そして自分の家族。

幸せだよ、間違いなく。

でも、だからこそ問いたくなる、「幸せって何だ?」

 

今年も様々な取捨選択を行っていくことになるんだろうな、自分は。

考えてみれば、人生なんて、その「選択」の「結果」の積み重ねなわけで、

だったら、「いつのまにか選択していた」のではなく、常に「選択する」方がいい。

日々の生活を、人生を、ライフスタイルを、自分と言う人間を、そして自分の周りの世界を、変えるきっかけなんてどこにでも転がっていると思う。

要は、それを意識して使う(使える?)かどうか。

 

「人との出会い」は人生を変える

「学問」は人生を変える

「読書」は人生を変える

「旅」は人生を変える

「結婚は」人生を変える

「離婚」は人生を変える

「就職」は人生を変える

「転職」は人生を変える

「恋」は人生を変える

「失恋」は人生を変える

 

って、大きな言葉だけではなく、身近なこともそうだよ、

「積極的な車選び」はライフスタイルを変える

「お気に入りのカメラのそのショット」は生活を変える

「昨日とは違う道」は昨日とは違う一日をもたらす

「素晴らしい景色」は生きる意味を教えてくれた

「ランニング」は肉体と、生き様を変えつつある

「いまさらの勉強」はいまさらの必要性を教えてくれる

「研修」は自分の存在意義を教えてくれている(と思いたい)

「楽しい会話」は心の持ちようを変えてくれる

 

そして、「君」は僕を変える・・・

「僕」は誰かを変えているのか?

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いろいろと「終わった」な・・・

久しぶりの更新。

 

今年も後僅か、すでにいろんなことが終わった・・・と思う。

楽しいこと、辛いこと、ほんと様々なことが”終わった”

■仕事収め  「終わったわけじゃないけど、今日で一応今年の分はおしまい。お疲れ!」

■厄年が終わる  「ほっ」

■くよくよ悩んでいた日が終わった  「歓迎すべきなんだろうな、自分の中での一応の決着がみられたんだから。」

■すごく楽しかった日が終わった  「・・・・分かってたんじゃないのか?いつか終わるって・・・」

 

「2007年が始まる前に、今年はこんなにいろんなことが起こるなんて、自分は思ってもみなかったろ。ってことは、2008年だって期待できるじゃん。そうだろ」

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偶然って素晴らしい

全くの偶然に、

同じ夕焼けを見ていた。

同じ月を見ていた。

そして、同じ感想を持っていた。

 

単なる偶然だよ。それは分かっている。

でも素晴らしいじゃないか。

それで充分、それだけで素敵な気分になれる。

 

「考えてみたら、この世の全ては、自分の存在も含めて偶然を基盤として成り立っている。感謝しなきゃ。」

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「見上げる」もの① ~月~

昨日、今日と、街は(例年そうですが)クリスマス一色で、我が家の前のケーキ屋(これがけっこう美味い!)も、”もの凄い”混みようで、交通整理の人が出ていました。自分は、車を駐車場に入れるのに遠回りをせねばならず、「何だかな~」と思っていたけれど、日ごろお世話になっているケーキ屋なので、文句を言ったらばちが当たるというもんですね。

クリスマスなどの(日本の伝統ではない)行事に、特に興味があるわけではないので(といっても付き合いは多いのですが)、昨日・今日の二日間は”満月(たぶん今日の方だろう)”が美しかったことの方が印象的でした。

月って、上空にあるより地平線に近い方が大きく見える(何故かな?あくまで経験則として)から、上弦の月が夜中に沈みそうになっているときなんかは、やたら大きく(時には不気味に)見えます。

昨日と今日の満月は、今の時期はほぼ冬至にあたることもあって、かなり早めに輝きはじめてました。つまり、夕方、地平線の低い位置で輝いているので、非常に大きく美しく感じました。藍色の空と満月とのコントラストは、言葉を忘れるぐらい・・・美しかった。

何たる存在感、圧倒される・・・。

比較的普段から月の満ち欠けは気にしている方で、というより、自分の行動を振り返ってみれば、昼となく夜となく、よく空を見上げているので、月や星や夕焼けや飛行機やその他もろもろを見ていると思います。

月は、本当に細い1日目の月もキレイだし、三日月は言うに及ばず、上弦、満月、下弦と形が変わっていく様を毎日見ているのは、案外楽しいし、とにかく美しい。

そういえば、ユーミンの曲で「14番目の月」ってのがあったと思うけれど、内容的には、「満ちてしまった満月より、まだ満ちきっていない月の方が(今後さらに上があるってことで)好きだ」というものだったけれど、当時は実感として支持できなかったものが、今はせつなく実感として受けとめられます。満月の後に来るものを考えざるを得ない、今日このごろですから。

とシンミリしてしまいましたが、月や星を見上げる楽しさ、美しさをこれからも書いていければと思います。かなり好きなので。(ちなみに、夕焼けは下記参照)

http://jidaiokure-blog.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_7056.html

「常に前ばっかり、上ばっかり見てればいいとは思わないけれど、どちらか選ぶなら上を、前を見て歩きたい。空も星も月も夕焼けも、そして希望も・・・美しいよ。」

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代替不可能なこと

「あなたにとって、代替不可能なものとは?」

こんなタイトルでバイトも含めて研修している会社なんて、他にあるのかな?

自分もかなり真剣に考えたけれど、思いつかなかった。「100兆円積まれても変えられないもの」なんてあるのかな? って真剣に悩んだ。親子の愛情は別として。

いくつかの意見に、そうとう深くうなずかされた。

「今、目の前にいる恋人。先のことは分からないけれど、今は変えられない。」 ほんと、その通りだよね。確かに先は分からない。でも、今、この瞬間、ならば、他の何もかも投げ捨てても貫き通したいといった気持ちはすごく良く分かる。たとえそれが恋人ではなく、片思いだとしても言える事だと思うな。

「人を愛する気持ち。誰かを愛する気持ちは、時間とともに変わっていくかもしれないけれど、一生人を愛せないなんてことは考えられない。」 参った。本気で参った。泣きそうになったよ、実際。 先週から今週にかけて、かなりへこたれてきたけれど、ここ数日は「他人の意見が身に沁みる。人の話に救われる」って気がしている。

「人間はそもそも不条理なもの・・・・・だから、それでいいんだよ」

「人を愛するという気持ちは一生消えない・・・・・だから、それでいいんだよ」

これで十分、たぶん大丈夫。

見返り(を常に求める)人間”、”(人の)思惑(ばかり気にする)人間”、”愛されたい人間”、”独占欲人間”、”即効(で結果を求め、待ってられない)人間

自分の弱点、嫌な面がいろいろ見えた1週間だった。でも、先の見通しも何となく見えてきたような気がしないでもない(←すっごい婉曲表現!)1週間でもあった。悪くない。

最後に、「自分にとって代替不可能なものとは、それを探して見つかるものじゃない。目の前の現実と必死に格闘し、日々力を尽くしていけば、いつか自然と生まれているもんじゃないのかな。」 って思うんだ。

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そうだったのか・・・

今、わかったことがある。

そうだったのか・・・。

納得。。。

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人から見た自分

他人から見た自分と、自分で思っている自分、どちらが本物か?

 

その答えが「他人から見た自分」と聞いた(そして納得した)ときには、かなり驚いたことを覚えています。だって、普通、自分のことは自分が一番良く分かっているって思っていません?

他人は、見えるものそのままで評価・判断するけれど、自分は様々な思い(それもかなり希望的観測が付随した、いや、ほとんどが「~~のつもり」や「○○だったら」といった、事実とはかけ離れた希望)をベッタリと引きずって自分を判断している、簡単な一言で言えば、だれもが自分にはなんだかんだいって”甘い”のです。

さらに、本物の定義として、自分が思っている自分(他人から見られているものとしてではなく)と、世間一般が広く共有している存在としての自分では、どっちが本物として認識されるべきかは、言うまでもないことですよね。

竹田青嗣さんの本をいろいろ読んでいって、この年にして、いろいろと目からウロコが落ちていきます。 ★特に「現象学入門」はお薦め★

そんなこんなで、ここ一年ぐらいは、今までの人生に無かったくらい「人の意見に耳を傾けるモード」になっています。人からの意見に対して

「いや、自分は・・・・・」となるべく考えないようにしています。

「そうか、その通りかもしれない」と思うように。

ただ、実際にそうできているのかは、判断に苦しみますが。

「心のフィルターをはずして、人の意見を聞くのは難しい。けれどやってみる価値は絶対にあること」

NikonF2titan+マイクロニッコール55mmF3.5

Hana1

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復活・・・遠し

昨日書いた、

「そうだ、その前に、明日も走ろう。走って走って・・・・復活しよう。」

なかなか、簡単にはいかないものだな。

 

走るのは走ったよ。でも、1時間以上走って、その間にいろいろなことを考えた。

バンプとアジカン聞きながら、いろんなこと考えた。そして、ちょっと分かってきたことがある。

 

一つめ ”やっぱり自分はなかなか弱い人間だった”ってこと。強くありたいから色々無理をしてきたんだな。負けず嫌いなのも、決めたらやり通すのも、今までの全部が弱さの裏返しに見えてきた。冬山に行ってたのも多分そうだ。無理をしたかったんだ。

二つめ ”何もない安穏とした日は送れない”ってこと。ヒリヒリするような刺激に満ちた日々が好きなんだ。だから、敵を作ることも厭わなかったし、誰がどこからどう見ても満ち足りている日を送っているように見えているのに、自分の中では”焦燥感”が爆発しそうになっていたんだ。

三つめ ”好きなものは好き”ってこと。こればっかりはしょうがないよ。

そして四つめ ”でも、もういいよ”ってこと。自分の気持ちは気持ち。行動は行動。分けなきゃダメだ。いい年してるんだし、大人だし、”~すべき”も必要だ。苦しませたくない、いや、それ以上に苦しみたくないのかもしれない。

最後に五つめ ”自分でできることだけに集中する”ってこと。自分ではどうしようもないもの(他人の心の中)をどうこう考えても、それこそ何にもならない。だったら、自分の力で、努力で何とかなる自分の事に全力を傾けるべし。そうするしかなかろう。それがイヤだったら、家で布団かぶって寝てるしかない。でもそれはもっとイヤだ。

 

頑張れ、オレ。 見返りを考えずに、最も良いと思うことをするって決めてたんじゃなかったのか?

 

忘れてた、六つめ 「今まで、自分の感情をぶつける相手を持たなかった(言うのを避けてきた)自分にとって、それを書き散らすことができる場があるのは、率直に今はありがたい。少しは楽になっているのかもしれない」

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大人って・・・

大人でよかった、

自分の気持ちにブレーキをかけられるから。

でも、大人って苦しいものだな、

自分の気持ちにブレーキをかけなければならないから。

前にも書いたけど、

http://jidaiokure-blog.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_e401.html

「~~~べき」で行動するのは苦手だ。っていうか本当はしたくない。

最近気付きつつあること、

案外、自分は弱いのかな。

人に弱みは見せたくない、夜中にお腹が痛くなっても、だまって1人で耐えているほうがいい。どんな悲しいことがあっても、1人でこっそり泣くほうがいい。今までそうしてきた。自分の感情の嵐に人を巻き込みたくない。(って、ブログ書いていること自体矛盾してないか?)

今日の夕焼けはキレイだった。不思議な感じがした。

でも、今の記憶に残っている色は・・・・。

あの時は、あんなに嬉しかったのに。

頑張れ、おれ。(”頑張る”って言葉、ホントは好きじゃない)

いい年して何を言って(書いて)るんだ?

明日も忙しいぞ、息つく暇もないぐらいに。

そうだ、その前に、明日も走ろう。走って走って・・・・復活しよう。

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夕焼け

最近、夕焼けがキレイだ。

今日は、飛行機雲が綺麗にオレンジ色に焼けていて、薄い藍色の空にオレンジの帯のように伸びていた。後ろのほうは風にかき消されつつあって、はかなかった。そういえば、この前もオレンジ色の帯を見た気がする。

夕焼けは、自分の人生の様々な場面とくっついている。

高校時代の部活帰りに毎日見ていた夕焼け。前の職場で夕方みんなで見ていた夕焼け。山登りの時の、山小屋やテント場での夕焼けは時を忘れ、これを見るために登ってきたのかな?と考えたこともある。大学時代の山小屋のバイトで見た、眼下の雲海と上部の雲のダブルで焼けていた真っ赤な夕焼け。インド洋の宝石のような島で、ひがな毎日ビールを片手に眺めていた夕焼け。

Yuyake1 Yuyake2

ここ最近は、夕焼けが綺麗かも?と思っていても、ちょっとそこまでも見に行けないことが多かった。刻一刻と変化していく夕焼けの観賞は、ゆとりある時間の中で、のんびりじっくりと待ちながら楽しむのがベスト。ホント最近は忘れていた時間のすごし方だな~。

そうだな、ほんの数分の余裕も失っていたなんて、なんだかな~って感じます。幸い今日は1人のんびり外の階段で空を見上げさせてもらいました。

ちなみに、日が沈んで、上空の藍色が濃くなっていって、上は群青色、地平線はほんのりオレンジって色合いも大好きです。←これ、朝が最高に綺麗!

「空も見上げない日に、どれほどの価値があるのか。のんびりも時には必要だよね。」

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正反対とおんなじのハザマで

うーん、正反対なんだよね。性格が。ほんとにそう思う。

でも、またホントおんなじとこもあるんだよね。すっごく共感できるところが。

共感に惹かれて、正反対に右往左往して、、、、でもその正反対な部分にも惹かれるのか?こっちの思惑なんか関係ない(左右されない?そもそも考慮されていない?)のかもね。「思惑人間→前ブログ参照」な自分にとってみれば、ちょっとイライラするし、切なくもなるけれど、そこにも惹かれるのであれば、自業自得やね。

やっぱ自分に無いもの(持ちたいと思っているのに)を持っている人はカッコいい。性別年齢関係なくカッコいい。特段の感情や人の思惑なんかに左右されない強さが。

今、自分はどこに立っているんだ? どっちに行くんだ? 進むべき方向の見当はついてるけど、自分が進みそうな方向は全く見当がつかないぞ。 そもそも”べき”で行動するのか?  ぜーんぶ独りよがりではないのか? 行き当たりばったりでもいいのか?

いやー、ホント、悩み多くて・・・・・。

ところで、(今聴いている)THE BLUE HEARTS まじカッコいい。全然古くならない。そうだな、こんな人間になれればいいんだろうな。周りのハートを揺すぶるような。

「この文章を読んでくださった奇特な方、意味わかんなくてごめんなさい。ただ解ってもらいたいことが・・・・・。悩みがあるってことはあながち悪いことばかりではないと思うわけで、退屈で変わりばえの無い日々よりもよっぽど得るものがある。絶対に!」

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隠すぜ!「思惑」

自分の思惑を、相手に”さりげな~く”伝えるか否か?

自分はたぶん、伝えるように(伝わるように)してきたと思います、今まで。

怒っているとき、嬉しいとき、お願いがあるとき、声をかけてもらいたいとき・・・何気にそんな雰囲気を出して、誰かがそのサインに気付くように・・・。

人を自分の思惑通りに動かすことは是か非か? とまあ、人は思惑通りには決して動かないので愚問ではあるのですが、動かそうとする(明確に?暗黙のうちに?)ことは、決して褒められた事ではないと思うのです。

優しさや”良い人”の押し売りは、決して気分の良いものではなく、さらに何か怒っている人がそばにいるのも不快だし、明らかに”明白な何か”を欲している人にそれを提供するのも無視するのも勇気とエネルギーのいる”かったるい”作業です。そんなことを人に要求するのはかなり罪が大きいな。

と同時に、思惑通りに人を動かそうとすることほど、その人の人格をコケにした行為は無いのではと。尊重の対極にある行動のように思います。

「相手に対して、自由に選択できる状況の中で”アドバイス”をすることは相当難しいな。自分の欲していること(思惑)を悟られないで話すことは、相当難しいな。でも、相手を尊重するならそうしなきゃね。」

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逆・反対・裏

「ASIAN KUNG-FU GENERATION」 いいな~。今日も聞きながらランニングしたけど、最高やね。何か気合が入りまくる。今日の公園で、こんなに気合入れて走っているのは自分だけじゃないか?と思いながら走っていました。諸般の事情(ランニング後に家族サービスと言う名の重要な仕事が控えていたため)により、ショートコースで済ませたけど、ロングしたかったな~。

ところで、タイトルにある「逆・反対・裏」ってことについて、今日も書き散らしてみます。

まずはじめに、ここ最近は「紅葉真っ只中」って感じで、ランニング中の公園でも、それこそいたる所で美しい紅葉が楽しめています。そしてカメラ片手の人人人・・・。当方として少々悲しいのは、(すでに当然のこととして受け止めてはいますが)デジカメ以外をほとんど見ないことや、そこそこちゃんとしたカメラを持っている人は、ほとんどの方がご年配の方(自分もそこに片足を入れていることは自覚しております)です。

デジカメや高機能お手軽カメラ(今コマーシャルしている笑顔感知ショットなんてその最たるモンですね)の普及で、写真を撮る行為自体が「手軽」になり、「特段の知識無しに」そこそこ良い写真が撮れるようになっている現状は、そのこと自体は決して悪いことではなく素晴らしいことなのですが、前述した「知識」というものは、無いなら無いで何とかなるけれども、あったほうが決定的に良いことが多々あります。

マニュアルカメラの時代では、写真を撮る人は「露出」や「被写界深度」や「レンズの特性」や「光の読み方」を少しは勉強しないと(もしくは経験しないと)ステキな写真は撮れなかったのではと思います(実際に自分もここまで何百枚の失敗写真を撮ったことか。中3の修学旅行のときに、兄に借りた一眼レフで調子に乗ってシャッター速度1/1000を使いまくった結果、出来てきた写真は全て『紙』のように薄いピントしか持ってなくてとにかくビックリしました)。

デジカメや全自動の様々なカメラを使われる方も、1980年代の写真関係の本を読むと、ものすごく勉強になると思います。今後このことは様々なジャンルについて書いていきたいのですが、「知識や経験が深まる=レベルが上がる」ことが、何事においても決定的に”楽しみ”それも”深い楽しみ・喜び”につながると思っています。頑張るための頑張りはそれこそ好きではないけど、レベルアップによってよ深く楽しむための努力・頑張り・勉強はぜひともすべきと声を大にして言いたいです。「確かに初めから面白いものもいっぱいあるけど、真の面白さはそんな所にはないよ」と言いたいことも多々あるのです。特にいわゆる勉強(数学など)には感じます。

さて、紅葉ですが、自分が最も好きなのは「逆光に透ける葉っぱ」です。つまり太陽の光を浴びている葉っぱを裏側から見る場面です。特にその背景が暗く沈んでいればなおのこと、葉っぱの1枚1枚が、自ら光を発しているようで非常に美しいと思います。まあ、そこそこ長く写真をやっている方は、逆光や半逆光時に人でも景色でも、ちょっと不思議な美しさを見せてくれることは経験してますよね。とにかく一度葉っぱを太陽に透かしてみてください。キレイでしょ。ただ、それを見たまま綺麗に写真に撮るとなるとそこそこテク&知識が必要になるのです。逆光に強いレンズも必要だし。

公園を走りながら「おとうさん、そこよりもあっちのほうが良いよ」とか「そこで写真を撮るなら、反対側から撮ったほうがキレイですよ」とか言いたくなるのをこらえています。もちろん余計なお世話は100%わかっています。

写真のこと以外で、タイトルのことについて最近よく感じるのは、「やりたいこととやらなければいけないことが逆になることが多いなー」とか「やりたいこととやってはいけないと思われることが一致することがこれまた多いなー」とかです。分別のついた(つけなくてはいけない?)歳になっている自分にとって、特に後者の「『やりたい』けど『してはいけない』」と”思われる”ことは、非常に悩ましい。言いたいけど言ってはいけない、やりたくないけどやらなければならない・・・。う~ん、おもうがままに生きてみたいぜ。分別なんか捨て去りたいぜ!!ってこれは危険かな?

あと、最近になって「人は(自分も含めて)言っていることと考えていること(本音)が反対の場合が多い」ことにやっと気付いてきました。特に衝撃的だったのは、自分を含めて(←これ重要です)多くの人が「自分は本音を言っていると思いながら反対のことを言っていたりする」ことです。

「そうか、人は自分にも嘘がつけるんだ、自分もだますことができるんだ!衝撃的。今の今まで気付かなかったぜ!」

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自分は「見つけられる人」か?

自分は(あえて言うのであれば)神に選ばれた人間ではない(大げさな意味ではなく、他人を凌駕する才能に恵まれているわけではないぐらいの意)、と自覚したときから、つまり「凡人である」と自覚したときから思っていることがあります。それは「凡人なら凡人として凡人のど真ん中を行く人間でありたい」。世の中を、世間を、みんなを幸せにすることなんか所詮凡人にはできないことなのだから、せめて自分の周りにいる人の一部でも(少々、ときどき、たまには)ちょっぴり幸せにすることができれば、それで満足だなと。できないことだらけの凡人には、できないことはできない。だからできることをしようぐらいの気楽な気持ちで。

最近は、人に対して何かをするときに、「相手のしてもらいたいことをする」のと「自分がしてあげたいことをする」のでは、結果として大きな違いがあるように感じています。どっちが人(他者も、もちろん自分も)を幸せにするのか?

自分のような(煩悩だらけの)凡人は、他人に対して”見返り”を全く考えないで行動することは決してできないと思っています。だけど、自分に対する見返りよりも、その人が喜ぶ、幸せに感じてくれる、嬉しく思ってくれることをほんのちょっぴりだけでも優先することは、十分可能なのではないかと。実際に、その人が嬉しく(幸せに)思ってくれることを最優先にしてあげたい、してあげよう、と思える相手がこの世に存在することは、今の自分にとって大きな幸せの一つにもなる気がします。

以前は、「自分(の良いところ)をどう見せるか、見てもらうか」ばっかり考えていたような気がしているけど、それはいったいなんのためだったんだろう。自分がどう見られるか以上に大切なことは、自分が人をどう見ていたか?どう見るのか。もっと具体的にいうのであれば、自分の良さを他人に対してアピールすることより、人の良さ(様々な意味での美しさ)を見つける能力が重要、特に、その本人が気付いていない素晴らしさを。

はたして自分は、相手の美しさを・素晴らしさを見つけられる人になれるのか?「周りの幸せが自分の幸せにもなる」日がくるのか?

「『愛される』まえに『愛す』ればいいじゃん。『幸せになる』ことを考えるより『幸せにする』ことを考えればいいじゃん。」

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かっこ悪い自分

スマートな人(もちろん体もですが、物腰や、人として全般的なものの方)になりたい。と思っています。粋な人といってもいいかもしれません。

しかしてその実態は、全くスマートとは正反対の(体は少々スマートに近づきつつありますが)人間が鏡に映っていたりするわけです。難しいな、スマート。

今日の自分もかっこ悪かったな~。粋の正反対で、まったく野暮でした。

ですが、そのかっこ悪かった自分を、ほんの少し認めてあげたいと思っている自分もいます。「お前は、しょせん3枚目だろ、堂々と3枚目でいなさい。」と言っている自分が。「3枚目なりに、野暮なりに、そこそこ力は尽くしてるだろう。」

そうだな、野暮には野暮の、3枚目には3枚目の生き方ってっものがあるはず。その道のど真ん中を歩いていけばいいのか。

「でも、憧れるぜ!スマートな人生、粋な人」

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初ブログです

初ブログです。

基本的にアナログ人間だと思います。

ただ最近、ちょっと自分自身に変化が表れてきている気がします。

今までの自分だったら拒否してきた様々なことに

気にも留めなかったことに

切ってきた人間関係に

あえて目をそらしてきたことなどに

ちょっとずつ目を向けていこうかと

行動していこうかと。

このブログもその一環なんだな~と思っております。

「自分の日記を公開するその意図は?」

「そもそも自分は日記なんか書いてきたのか?」

手を出さない理由はそれこそ百万遍も付けられるでしょうけど

どうせ理由を付けるのならば「手を出す理由」を探してみようかと。

そんな感じで

気の向くまま

思いつくまま

書き連ねていければと。

でもホント、

「やらない理由を探すより、できることを探すほうが何倍も気持ちいいな」

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